日曜朝の礼拝「アッバ、父よ」

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アッバ、父よ

日付
説教
吉田謙 牧師
13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
コリントの信徒への手紙一 8章12節-17節

 今日の箇所には、「肉」という言葉が何度か使われていました。この「肉」というのは、生まれながらの人間がもっている神様に背く性質のことを言います。欲望のままに生きる。あるいは神様に背いて生きる。こういう生まれながらの人間の性質を、聖書では「肉」と呼んでいるのです。

今日の箇所のすぐ前の8章1節から11節のところでは、イエス様を信じる人には既に聖霊が宿っていて、もう肉に従うような生き方をしない。この肉の生き方を克服しながら、豊かな人生を生きることができる。また死の後には永遠の命をいただくことができるのだ、このように教えられています。

では、聖霊の宿りによって、私たちの内には、肉の思いが全く無くなってしまったのでしょうか。そうではありません。欲望のままに生きる。あるいは神様に背を向けて生きる。こういう性質が、なおクリスチャンの内にも、こびりついています。私たちは、その肉の思いと、なお戦い続けなければなりません。

 13節。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」この「体の仕業」というのは、「肉」と言われていたのと同じような意味です。「体」と言うのは、特に「具体的な私」という気持が強い言葉でしょう。イエス様を信じた後も、体には神様に背き、欲望のままに生きようとする思いが染みついているのです。その体に染みついている仕業を絶つならば、あなた方は生きる、永遠の命に至るのだ、とパウロは励ましているのです。

 この「絶つ」と翻訳されている言葉は「繰り返し絶ち続ける」という意味の言葉です。イエス様を信じた瞬間に、私たちの心は全く綺麗になり、もう何も悪い心は湧いてこない、染みや傷やほころびが全くない天使のような存在になれるのかと言うと、決してそうではありません。私たちはそのことを嫌というほど思い知らされているのではないかと思います。罪を悔いては犯し、また悔いては犯す、これがクリスチャンの現実の姿ではないかと思います。けれども、ではそれがクリスチャンの姿の全てなのかというと、決してそうではありません。クリスチャンは、聖霊によって罪と闘いながら、この体の仕業を絶ち続けるのです。

 「絶ち続ける」ということを逆に言うならば、私たちの内にはそういう行い、そういう思いが絶えず湧き続けている、ということでしょう。本当に多くのクリスチャンたちが、そのことで悩んでいるのです。「また失敗をしてしまった。こんなことでは救われているとは言えないのではないか!」こういう悩みを私たちは絶えず味わい続けているのではないでしょうか。けれども、後半の14節からのところでパウロは、この聖霊によって絶ち続けている、反対に言うならば肉の思いが湧き続けているということですが、こういう絶ち続け、湧き続けている生活の中にいる者たちが神の子なのだ、と励ますのです。14節。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」霊によって体の仕業を絶ち続ける人は、やはり神の霊によって導かれている人なのです。聖霊は、厳しい教師のように、私たちを鞭打ちながら正しい生活へと駆り立てるのではありません。そうではなくて、繰り返し罪を犯し続け、しかしそれでもなお諦めずにその罪を断ち切ろうと必死で闘っているあなたが神様に愛されている。そのままであなたは神の子なのだ、と聖霊は私たちに教えて下さるのです。

 そういうわけで15節のところに、この有名な御言葉があります。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」

 「体の仕業を絶ち続ける」「罪と戦う」という時に、奴隷のように恐怖に縮み上がりながら、こうしないと神様に叱られるから嫌々するというのではなくて、私たちの内には「アッバ、父よ」と呼ぶような聖霊が与えられている、と言うのです。この「アッバ、父よ」という言葉は、もともとはイエス様が父なる神様に対して用いていた祈りの言葉でした。もともとこの「アッバ」という言葉は、子供が父親に対して用いるような、親愛の情に満ちた呼びかけの言葉であった、と言われます。これは、本来、神の独り子であるイエス様だけが用いることのできる呼びかけの言葉です。けれども、イエス様は「祈る時にはこう言いなさい」と教えて下さった「主の祈り」の中で、あなた方は神様のことを私と同じように、親しく「父よ」と呼んでよい、と教えて下さったのです。本当に感謝なことだと思います。

 私たちは弱いですから、しばしば罪との戦いに敗れてしまうことがあります。しかし私たちにとって、一番肝心なことは、この私が罪に勝つか負けるかではありません。勝っても、負けても、神様はその愛を変えることがない。あるがままの私を愛し、受け止めて下さるのです。私たちは、この神様の愛に促されながら、喜んで、また感謝をもって戦い続けることができます。そうやって悔いてはまた罪を犯し続けながらも、聖霊に導かれて、なお諦めずに「アッバ、父よ」と叫び続け、戦い続ける者たちこそが神の子なのだ、とパウロは励ましているのです。これこそペンテコステの恵みです。

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