主を信頼せよ
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- 説教
- 吉田謙 牧師
22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。・・・ 32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
ルカによる福音書 12章22-32節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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そもそも、なぜ私たちは思い悩むのでしょうか。イエス様は28節の終わりのところで、「信仰の薄い者たちよ」と言われました。思い悩むのは信仰が薄いからなのです。「薄い」と訳されている言葉は「小さい」という意味の言葉です。信仰が小さいというのは、信仰が信仰として正しく機能していない、ということでしょう。要するに本当に信じていない、ということです。神様を信じている人は、神様が自分の命と体を養い、装い、守って下さることを信じています。そのことを本当に信じているならば、思い悩みからは解放されるはずではないでしょうか。それなのに、なお思い悩むというのは、神様の養い、装い、守りをどこかで信じ切れていないからです。それは即ち、神様を本当の意味で信じていない、ということです。
しかしイエス様は、32節のところでこう言われました。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
ここで「恐れる」と訳されている言葉は、本来「逃げる」という意味の言葉です。イエス様は、私たちが小さな群れであり、恐れずにはおれない者であることをよくご存知です。けれども、「恐れるな!」「そこから決して逃げてはならない!」と主は言われます。何故でしょうか。それは「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」からです。
私たちは、本当に信仰が弱く、小さく、出来の悪い者たちです。けれども、そういう小さく、愚かな私たちを救うために、神様は御子をこの世に遣わして下さいました。そして主なる神様は、この御子イエス・キリストを、たとえからし種一粒の信仰であっても信じ、受け入れた私たちを神の子として下さったのです。ですから、本来、私たちは神様に造られた被造物にしかすぎないのに、この天地万物を創り、今もそれを統べ治めておられる神様のことを、「天の父よ」と呼ぶことが出来るのです。何という幸いでしょうか。この愛と力に満ち溢れた父であるお方が、喜んで神の国を下さる、と言うのです。神の国を下さる。「神の国」とは「神様のご支配」という意味です。これは、やがて終わりの日に神の国の完成を私たちに見させて下さると同時に、この地上においても、この神様のご支配を私たちに明らかにして下さる、ということでしょう。今、私たちが生きているこの世界は、度々理不尽なことが起こり、本当に神様はこの世界を支配しておられるのだろうかと疑いたくなるような惨憺たる有様です。本当に思い悩みの尽きない世界です。けれども、決してそこから逃げないで、イエス・キリストの十字架と復活の恵みにしっかりと踏みとどまり続けるならば、必ず神様がこの世界を支配しておられることを、私たちにはっきりと見させて下さいます。これがイエス様の約束です。
改革派教会のある先生から、以前、こういう話を聞いたことがあります。その先生の教会のある姉妹が天に召されました。その方は亡くなる前に、ノートに信仰歴と愛唱聖句と愛唱讃美歌、そして最後にスピリという人の詩を書いておられたそうです。このスピリという人は「アルプスの少女ハイジ」の作者です。こういう詩です。「一(ひと)滴(しずく)、またふたしずくの涙が、落ちようとも、明日は日曜日、全ての悲しみを癒したもう、主よ。」そしてこの姉妹は、その詩にこんな言葉を付け加えていたそうです。「さあ、教会へ行こう。守り導きたまえ。」「一(ひと)滴(しずく)、またふたしずくの涙が、落ちようとも、明日は日曜日、全ての悲しみを癒したもう、主よ。さあ、教会へ行こう。守り導きたまえ。」
この姉妹の心は、私たちにもよく理解できるのではないでしょうか。この地上に生きる私たちには、なお辛い日々があります。涙の日々があります。拭いても拭いてもまた涙が流れ出てくるのです。何故、私たちは、「さあ、教会に行こう!」と思うのでしょうか。それは、そこでイエス様にお会いし、そのイエス様から涙を拭っていただけるからです。ヨハネの黙示録には、こういう御言葉があります。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」ヨハネの黙示録21章3節,4節の御言葉です。キリストに結ばれた私たちの目から、その涙がことごとく拭い取られる。その涙の根本的原因であり、最後の敵である死そのものに完全に勝利された主イエス・キリストが、もう一度来て下さる。罪や死や悪魔の力に勝利されたイエス・キリストが、悲しみや嘆きや労苦を、その根本から完全に断ち切って下さる。そういうお方が来て下さる。これは、やがて来る「世の終わりの時」を語った言葉です。私たちの歩みは、この神の国の完成を目指した途上にある、と言えるでしょう。残念ながら、まだ神の国は完成していません。まだ涙はことごとく拭われていないのです。けれども、ただそれだけでしょうか。今、私たちは、ただ涙を流し続けるしかないのでしょうか。決してそうではありません。何故、私たちは教会に来るのでしょう。それは涙を拭っていただくためです。力をいただくためであります。神の国は、もう既に始まっています。まだ不完全ではありますが、この礼拝の場所で、確かに十字架と復活のイエス・キリストにお会いすることが出来る。
そういうわけで私たちは、この週毎の礼拝の中で、神の国の恵みの一端を味わい、励まされ、涙を拭っていただきながら、またそれぞれの戦いの場へと出て行くのです。しかし、その戦いの中で、また私たちは深い傷を負い、この礼拝の場へと戻って来ます。けれども、そこで私たちは、十字架と復活のイエス・キリストから、また新たな慰めと癒しと勇気が与えられるのではないかと思います。こうして私たちは、主の日の礼拝から派遣され、また主の日の礼拝へと戻って来る、その繰り返しの中で、傷つき、失敗しても、イエス様の十字架によって赦していただき、癒していただきながら、悔い改めつつ、また希望をもって立ち上がっていくのです。要するに、この礼拝の繰り返しこそが、私たちを思い煩いから解放する秘訣なのではないかと私は思います。
この年も、依然としてコロナ禍が続き、全く先行きが見通せません。一人一人の歩みも、病や大きな困難を抱えておられる方々が大勢いらっしゃり、将に混迷を極めています。けれども、だからこそ、今日から始まる一年は、もうジタバタするのではなくて、主の日の礼拝から派遣され、また主の日の礼拝へと戻って来るこの繰り返しの中で、少しずつ思い煩いから解放され、主を信頼する歩みへと導かれていきたいと思います。