日曜朝の礼拝「十字架への道」

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十字架への道

日付
説教
吉田謙 牧師
4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。・・・ 8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。・・・ 11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
ヨハネによる福音書 18章1節-11節

 イエス様は、これから起こる十字架の出来事を何もかもご存じでした。これからどんな悲惨なことが起こるのかを全部知っておられたのです。その上で、全く尻込みすることなく、自ら進み出て、「だれを捜しているのか?!」と言われたのでした。何故、イエス様は、そこまでして苛酷な道を、自ら進んで選び取られたのでしょうか。そのことは、今日の御言葉の一番最後の11節のところに、よく言い表されています。逮捕しようとした人々に向かって、一番弟子のペトロが剣を抜いて斬りかかった時に、主はこのように言われたのです。11節。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

 この「杯」という言葉は、神様が与えて下さる身の上のことを言い表しています。今日の箇所では、神様からいただく十字架の身の上のことを、この「杯」という言葉で言い表しているのです。つまり、この十字架という身の上が神様が与えて下さる身の上であるならば、つべこべ言わずに素直に受け取るべきではないか、と主はいきり立つペトロを諭されたのでした。

 私たちがいただく杯は、必ずしも嬉しい杯ばかりではありません。時には悲しいことや辛いことが身に起こることがある。その悲しみや辛さの中で、私たちが我慢できずに、すぐに音をあげてしまうのは何故でしょうか。それは、その苦しみや悲しみを、神様からきたものとして受けとめることが出来ないからでしょう。何か運命の悪戯が、自分をもてあそんでいるかのような気がするのです。辛い病気や激しい苦しみや悲しみに襲われる時に、私たちは、神様から見捨てられたような気持ちになることがあります。神様が支配している領域とそうでない領域があって、神様から見捨てられてしまったならば、もう神様の手は届かない、恐ろしい力によって好き放題に支配されてしまう。そういう不安を覚えるのです。だからへこたれてしまう、だから音をあげてしまうのです。

 例えば、こういうことを考えればよく分かるのではないかと思います。ある子供に、夜一人で、墓場を通り抜けて行くように、と言ったとします。その子は、どういう反応を示すでしょうか。きっと怖がって言うことを聞かないと思います。いくら墓場には何にも怖いものはないよと説明したとしても、その子はきっとしりごみするでしょう。しかし、もし父親が黙ってその子の手を握りしめ、父親の手のぬくもりを感じながら、墓場の暗闇を通り抜けて行くとするならば、どうでしょうか。きっとその子は、安心して墓場を通り抜けることができると思います。父親がしっかりと自分を支えてくれているので、たとえどんなことが起ころうとも大丈夫、という安心感があるからです。

 私たちが辛い時、悲しい時に、すぐに音をあげてしまうのは、神様がこの苦しみや悲しみの時に、私たちをしっかりと握りしめ、支えていて下さることを忘れてしまうからです。あるいは信じることが出来ないからであります。私たちが信じている聖書の神様は、全てのものを造り、全てのものを支配しておられる全能の神様です。このお方の前では、どんなに恐ろしい力であっても全く太刀打ちできません。その神様が他でもない私の味方であり、私を愛しておられるのです。どんな時でも私たちを守り、いかなるものであっても、この神様の愛から私たちを引き離すことは出来ません。ここでイエス様は、そういう神様への信頼をもって、この十字架という、とてつもなく大きな神様の怒りの杯を、しっかりと受けとめられたのではないかと思います。

 そうやってイエス様は、ご自分を差し出しながら、「弟子たちは去らせるように」と言われました。9節のところにその解説が記されています。「それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」

 私は、この箇所を読みながら、以前学んだ「わたしは良い羊飼いである」という御言葉を思い起こしました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ福音書10:11)。羊飼いは、いつも群れの先頭に立ち、自らの身を挺して、草むらに潜んでいる蛇にかまれたり、ライオンや熊と命懸けで戦いながら羊を守ります。一匹一匹の羊を愛し、命懸けで羊を守るのです。今日の箇所のイエス様のお姿は、将に私たちを守るために命懸けで先頭に立ち、戦い抜いて下さる羊飼いの姿そのものではないでしょうか。

 今日の箇所のすぐ後を見ると、一番弟子のペトロの不甲斐ない姿が描かれています。女中の言葉に恐れをなし、「私はキリストの弟子ではない!」と三度も言い放ってしまいます。何も殺されるわけではありません。同じたき火にあたっている女中から「あんたも、あの人の弟子の一人ではないのか?!」とちょっとからかわれただけです。そんな女中の言葉に恐れをなし、イエス様のことを三度も「知らない!」と否んでしまった。もう最低の弟子です。けれどもイエス様は、そのことをもちゃんとご存じでした。あらかじめペトロに、「あなたは、鶏が鳴く前に、私を三度知らないと言うだろう。」と告げておられたのです。今日の箇所でイエス様は、そんな不甲斐ないペトロをも身を挺して守って下さったのでした。わたしは一人も失いませんでした」とイエス様が言われたのは、そういうことです。

 私たちは、この神様の御心を感謝をもって受け止め、しっかりと心に刻んでおきたいと思います。そして、今日の箇所でイエス様が「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか?!」と言われていたように、喜びの杯も、悲しみの杯も、苦しみの杯も、全てこの愛に満ちあふれた神様から与えられる杯なのですから、あたふたして逃げまわるのではなくて、諦めて生きるのでもなくて、しっかりと受け止めていきたいと思います。その時に、羊飼いであるイエス様は、きっと今、私たちに最も相応しい仕方で助けを与えて下さることでしょう。

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