日曜朝の礼拝「この人を見よ」

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この人を見よ

日付
説教
吉田謙 牧師
 5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。
ヨハネによる福音書 18章38節-19章16節

 今日の物語を理解する上で鍵になるのは、やはり5節の御言葉ではないかと思います。「見よ。この男だ!」こう言ってピラトは、イエス様のことを指し示したのでした。これは直訳すると「見よ。この人だ!」「この人を見よ!」という言葉です。この言葉は、ラテン語では「エッケ ホモ」という言葉で、教会はこの言葉を、無くてはならない大切な言葉として、今日まで大切に語り継いできました。そして、この「エッケ ホモ」という言葉は、今日の御言葉から取られた言葉なのです。「この人を見よ!」これは、もともとはピラトがユダヤ人たちへ呼びかけた言葉です。「こんな惨めな姿をさらけ出した人間が、王であるはずがないではないか。よくこの人を見てみよ!」このように、この言葉は語られたのです。つまり、もともとこの言葉は、イエス様を蔑む言葉として語られました。けれども、その直前の箇所で、「イエスこそ真理の王なのだ」という言葉を聞いたこの福音書の読者たちにとっては、この言葉は、それとはまた別の意味として受け止めることが出来るのではないかと思います。「見よ、この人だ!」「確かに、このお方こそが真理の王なのだ!」と読者たちが読み取れるように、ヨハネはこの箇所を書いたのです。

 イエス様は、本当に恐ろしい鞭で打ちたたかれ、背中はもう肉も皮も裂けてボロボロになっていました。顔は何度も何度も殴られて、腫れあがっていました。頭には悪ふざけの茨の冠が突き刺さり、血が滴り落ちていました。本当に見るも無惨な姿です。けれども、「このお方こそが真理の王なのだ!」とヨハネは私たちに伝えたいのです。

 イエス・キリストが指し示して下さった真理、即ち神様の本当のお姿は、あの有名なヨハネによる福音書3章16節の御言葉に、簡潔に言い表されていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」この御言葉です。目に見えない神様は、私たちの想像を遙かに越えた本当に素晴らしいお方であり、愛に満ち溢れたお方でした。ご自分の独り子を私たちのために与え尽くしてしまわれるほどに、私たちのことを愛して愛して止まないお方だったのです。

 背中は鞭で打ちたたかれ、皮も肉もザクロのように裂けている血みどろのお方です。頭には茨の冠が突き刺さり、血が滴り落ちています。顔も平手で何度も何度も殴られて、人相が変わるぐらいに腫れあがっています。本当に見るも無惨なお姿です。けれども、この惨めで、情けないお姿こそが、神様の本当のお姿を鮮やかに指し示していたのではないでしょうか。神様が独り子をお与えになるというのは、本当はそういうことでした。これは決して軽いことではありません。私たちの思いを遙かに超えた壮絶なことだったのです。そのことが、このイエス・キリストの十字架の時に、最も鮮やかに示されたのでした。独り子をそのような惨めな姿にしてまでも、私たちの罪をその御子に負わせ、私たちを救おうとなさった。これが神様の本当のお姿だったのです。

 それでは、このようなお方を王とするとは、いったいどういうことでしょうか。王様とは、結局、支配するお方です。このお方が王であるというのは、このお方が私たちを支配しておられることを認め、その支配を受け入れる、ということでしょう。辛い時も、不安な時も、悲しい時も、私たちはそういう辛さや不安や悲しみによって支配されているのではありません。得体の知れない力によって支配されているのでもありません。私たちの人生を握っておられるのは、罪にまみれた私たちを丸ごと愛し、私たちを救うために、ボロボロになって、血まみれになって、ついにはご自分の命をも犠牲にしてくださった、このイエス・キリストなのだ、と私たちは信じ抜くのです。

 私は、以前、聖書を読みながら、初代教会の人たちの本当に自由で、溌剌とした姿に、ある憧れを覚えていました。私もあんなクリスチャンになりたい、と思っていたのです。けれども、同時に、今の時代に、これと同じ様なことが果たして起こるのだろうかと、正直言って疑問に思っていました。しかし、以前、中国に聖書を届けるという働きに参加した時に、そんな私の思いは見事に打ち砕かれたのです。彼らは、いつ捕らえられるか分からない、捕らえられたならば生きて帰ってくることが出来るかどうかすらも分からない、そういう困難の中にあっても、実に生き生きと輝いて生きていました。私は彼らに出会って、本当に大きな衝撃を受けたのです。その時、私が目の当たりにしたのは、聖書に描かれている初代教会の姿そのものでした。彼らはこう言いました。「迫害は確かにサタンの力でしょう。でもそれは、神様の知らないところでサタンが好き放題をしているのではなくて、神様の支配のもとで、ただサタンが悪あがきしているだけです。だから私たちは安心して、その苦しみに立ち向かっています。」彼らは、あっさりこう言いのけたのでした。私は、彼らに出会って、本当に嬉しくなりました。本来、クリスチャンというのは、こんなにも自由で、強くなれるのかと感動したのです。そして、「私もこんなクリスチャンになりたい!」と心の底から思えるようになったのでした。

 真理の王であるイエス・キリストを受け入れたクリスチャンは、本当に自由であり、平安であり、驚くほど大胆です。キリストを真理の王として私たちの心の王座に据える時に、もう私たちは何も恐れる必要はありません。人々の評判に身をすくめる必要はないのです。神様が私たちを高く評価して下さいます。力ある人を恐れる必要もありません。その人も私たちと同じ人間であり、神様に造られた存在なのです。人間を越えた恐るべき力、運命の力を恐れる必要もありません。全てを支配しておられる全能の神様が私たちの味方であり、いつも私たちを守り、導いて下さいます。私たちも、この真理の王であるイエス・キリストを私の王として受けとめ、本当の自由と本当の平安を味わう者でありたいと思います。

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