日曜朝の礼拝「十字架の意味」

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十字架の意味

日付
説教
吉田謙 牧師
37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
ヨハネによる福音書 19章31節-37節

 福音書記者ヨハネは、イエス・キリストの十字架の出来事を書き記しながら、「聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある」と解説しました。これはゼカリア書12章10節の御言葉です。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(ゼカリア書12:10)

 まるで謎のような言葉ですね。しかし、だいたいの意味は分かるのではないかと思います。これは、やがてイスラエルに起こる悔い改めを預言した言葉です。「わたし」というのは神様のことです。「彼らは自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめる。」イスラエルの人々は、神様を刺し貫いたのです。実際に、神様から遣わされた預言者を殺したことがあったのかもしれません。しかし、これはただそういう大それたことだけを指しているのではなくて、イスラエルの人々が日々の生活の中で、神様を忘れ、神様を無視し、自分勝手に生きている姿を神様はご覧になりながら、「わたしを刺し貫いたのだ!」と言われたのです。ところが、恵みと憐れみと祈りの霊が注がれる時に、彼らは、ようやく自分たちがしでかした過ちに気づき、自分たちが刺し貫いた神様を見つめながら、独り子を失った母親のように嘆くのだ、と言われているのです。先週私たちは、母マリアの姿を通して、愛する息子を失う母親の悲しみを心に刻みました。愛する息子が、十字架に張りつけにされて、ボロボロになって、血まみれになって、苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いた末に死んでいく、マリアはそういう姿を間近で見ながら、何も為す術がなかったのです。どれほど深い悲しみを味わったことでしょう。しかし今度は、イスラエルの人々がそれと同じぐらいの深い悲しみ方で、神様に反逆し、神様を刺し貫いてしまったことを悲しむようになる、と言われているのです。

 またゼカリア書12章12節以下には、このように言われています。「大地は嘆く。各氏族は各氏族だけで、ダビデの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、ナタンの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、・・・・」この後、ずっと同じ様な言葉が続いていきます。これは、いったい何を言おうとしているのでしょうか。これは、イスラエルの人々が、「私たちの国は大きな罪を犯しました。私たちの国は、本当に悪い国でした!」と一億総懺悔するというのではなくて、一人一人が、「私が悪かったのです。私自身が神様を刺し貫いてしまいました!」と、氏族ごとに、女ごとに、それぞれが自分の問題として嘆くのだ、と言われているのです。そして続く13章1節には、「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」と約束されています。本当にひどい仕方で神様に反逆し、拒絶し、退けたことを、皆が悲しみ、「こんな大きな悲しみ、失敗は、もうどうにもならない!いったい私たちはどうすればよいのだろうか?!」と思いあぐねている時に、神様ご自身がその罪を洗い清める泉を用意して下さる、と言われているのです。これは驚くべき約束ですね。ヨハネは、このゼカリア書の御言葉を、今日の箇所に引用しました。『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』と書いたのです。つまりヨハネは、この御言葉を引用することによって、このゼカリア書の御言葉が、十字架のイエス・キリストによって成就したことを伝えたかったのでしょう。「十字架の物語を読む全ての人が、他でもないこの私がイエス・キリストを十字架につけた、刺し貫いたのだ、とやがて受け止めるようになる。そして、『とんでもないことをした。どうすればよいのだろうか?!』と、自らの罪を悔い、思いあぐねている者を、なんと神様は赦して下さる。ご自身が用意して下さった泉によって、即ち、イエス・キリストの十字架の血潮によって、その罪を洗い清めて下さるのだ!」このことをヨハネはどうしても伝えたかったのです。

 使徒言行録2章22節以下にペトロの説教が記されています。こういう説教です。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」

 人々はこの言葉を聞いて、本当に驚いたことでしょう。自分たちが殺してしまったイエスこそ、神から遣わされたメシア、救い主であった。我々はとんでもないこと、取り返しのつかないことをしてしまった、そう思ったのではないかと思います。そこで人々は、「私たちがイエス様を十字架につけてしまいました。いったいどうすればよいのでしょうか?!」とペトロにすがりつきました。その時にペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と語ったのです。使徒言行録2章38節の御言葉です。凄いことですね。これがイエス・キリストの十字架の恵みです。自分が突き刺したお方としてイエス・キリストを見る時に、このキリストの十字架の恵みが私たちのものとなるのです。

イエス・キリストの愛は、いつでもどこでも私たちに届けられています。けれども、それは私たちの方が振り返らなければ見えてこないのです。まず素直になって、自らの罪を認め、神様ご自身が用意して下さった泉によって、即ち、イエス・キリストの脇腹から流れ出る十字架の血潮と命の水によって、私たちにこびり付いている罪を全部洗い流していただきましょう。

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