日曜朝の礼拝「主の晩餐」

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主の晩餐

日付
説教
吉田謙 牧師
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
マルコによる福音書 14章22節-26節

 聖餐式は、イエス様によって周到に準備された過越の食事の中で執り行われました。過越の食事というのは、その昔、ユダヤの民がエジプトの地で奴隷であった時に、主なる神様の不思議な導きによって救い出されたことを思い起こすための儀式です。主なる神様は、モーセを指導者に立て、ユダヤの民を奴隷から解放するようにと、様々な方法を用いてエジプトの王に迫りました。けれども、エジプトの王はいっこうに聞く耳をもちません。そこで主なる神様は、ついにエジプトの全ての家の初子、即ちその家に初めて産まれた子供を打つ、という恐ろしい災いを起こされたのです。その時に、ユダヤの家だけは小羊の血を鴨居と門柱に塗って目印がつけられ、その目印のある家だけは、この災いが通り過ぎっていきました。これまで頑として譲らなかったエジプト王も、さすがにこの災いだけはこたえたのでしょう。とうとうユダヤ人を奴隷の状態から解放したのでした。ユダヤでは、この救いの出来事を記念して、毎年、過越の祭りが祝われるようになったのです。

 この過越の食事には、決まった食事のメニューがあり、しかも、その順序もきちんと定められていたと言います。この過越の食事のメインディッシュは、言うまでもなく、神殿で屠られた小羊の肉でした。ところが、不思議なことに、イエス様や弟子たちが、この小羊の肉を食べたという記述は、今日の箇所のどこにも見当たりません。これはいったいどういうことでしょうか。ここには、非常に重要な意味が隠されています。つまり、イエス・キリストこそ、民の救いのために身代わりとして屠られる過越の小羊であった、ということです。この食事のあと、イエス様は逮捕され、深夜の裁判を経て十字架へと引き渡されました。イエス様は、この過越の食事の中で、将にご自分を過越の小羊として差し出され、その後、ご自身が屠られる十字架へと、ただひたすら突き進んで行かれたのです。

 このようにイエス様は十字架に架かられる前の夜に、この過越の食事の席上で、ご自身を過越の小羊として差し出されました。即ち、パンと杯を取り、「これはあなた方の救いのために屠られる私の体であり、血である」と弟子たちにパンとぶどう酒を差し出されたのです。こうしてイエス様は、十字架を直前に控えた夜に、これからご自分が向かおうとしておられる十字架に、どのような意味があるのかを弟子たちに明らかにされたのでした。

 当時、十字架刑は、死刑の中でも最も残酷な刑罰でした。まずイエス様は目隠しをされ、鞭打ちの刑を受けられました。当時の鞭の先端には、鋭利な動物の骨が取り付けられていて、鞭が体を打ち付けるたびに、肉はザクロのように裂け、血しぶきが舞ったと言います。頭には数センチほどのトゲをもった茨の冠が突き刺さり、血が滴り落ちていました。顔も平手で何度も何度も殴られて、人相が変わるぐらいに腫れあがっていました。そんなボロボロになったイエス・キリストが十字架に釘付けにされて、苦しんで苦しんで苦しみ抜いた末に息を引き取られたのです。しかも、イエス様の苦しみは、そういう肉体的な苦しみが全てではありませんでした。聖書は、イエス様がこの十字架の上で、神様から完全に見捨てられた、と伝えています。神様の恵みと愛が、この十字架の上で、完全に絶たれてしまったのです。私たちは、神様の愛と恵みが完全に絶たれてしまうことを、これまで経験したことがありません。優しい言葉が、家族を通して、あるいは友人を通して、必ず一つや二つは私たちの耳に届いてくるのです。あるいは食べ物や着る物や趣味など、この世を生きていく上での喜びが、私たちには必ず届けられています。このように神様は私たちが生きている限り、神様の愛と恵みとを必ず届けて下さるのです。けれども、この時、イエス様は、神様から完全に見捨てられました。神様の愛と恵みが一欠片も届かないという、これまで誰も経験したことがない恐ろしい時間を、この時、イエス様は過ごされたのです。

 そういう十字架を直前に控えた夜に、イエス様はこの聖餐式の席上で、「私は他でもないあなた方を救うために、この壮絶な十字架の苦しみを担う。そこで私は肉を裂き、血を流して、私の命を差し出す。だから、あなた方はこれを食べ、これを飲むように。この私の愛をしっかりと受け取るように!」と命じられたのでした。

 「取りなさい。これはわたしの体である。」これは明らかに命令の言葉です。「あなたはこれを取りなさい。私の弟子である限り、あなたはこれを取らなければならない!」と主は命じられたのです。これは、あくまでも命令ですから、取っても取らなくても、どちらでもかまわないというのではありません。今日は気が進まないので受け取らないとか、自分はこれを受け取る資格がないので受け取らない、ということがあってはならないのです。私たちは、うっかりすると、自分は罪深い者だから受け取らない方が誠実ではないかという錯覚に陥ることがあります。けれども、そういう論理は、この聖餐式には通用しません。今日の記事の直前には、イスカリオテのユダの裏切りの予告が記されています。そして、今日の記事の直後には、ペトロや他の弟子たちに対するつまずきの予告が記されているのです。つまり、この聖餐式に最初にあずかった弟子たちは、決して立派な信仰の持ち主ではなかったのです。いや、むしろ、この時の弟子たちの信仰は、今将に崩れかけていました。そういう弟子たちに向かってイエス様は、「取りなさい。これはわたしの体である」と命じられたのです。つまり「これを取らなければ、あなた方は、このまま崩れ折れてしまう。もう信仰生活を全うすることが出来ない!だから、あなた方はこれを受け取るように!」と促されたのです。実際にイエス様は、この聖餐式によって、崩れる寸前の弟子たちの群れを、しっかりと支えて下さいました。この後、弟子たちは、イエス様を裏切り、取り返しの付かない失敗をしでかしてしまいます。けれども、彼らはそのとんでもない罪に気づかされた時に、この聖餐式の中で指し示された十字架の恵みを思い起こし、罪赦されて、再び立ちあがっていったのです。ですから、私たちも、たとえ自分の罪深さに絶望し、信仰がぐらついていたとしても、迷わず、この聖餐の礼典にあずからなければなりません。いや、むしろそういう時にこそ、積極的に聖餐の礼典にあずかるべきでしょう。主が必ずや、この聖餐の礼典を通して、私たちの崩れかけた信仰を立て直して下さるはずです。

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