絶望から希望へ
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- 説教
- 吉田謙 牧師
16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
ヨハネによる福音書 20章11節-18節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の箇所から、いよいよ、復活のイエス・キリストが弟子たちに現れて下さったという本当に心躍る物語が始まります。復活のイエス・キリストに一番最初に出会ったのは、マグダラのマリアという女性でした。彼女は、もぬけの殻になった墓を見ながら、諦めきれない思いで、なおも墓の前で泣き続けていたのです。ここに用いられている「泣く」という言葉は、「声を張り上げて泣く」「泣き叫ぶ」という言葉です。マリアは、この悲しみに耐えきれなくて、声を張り上げて泣き続けていたのでした。
ところが泣いているマリアの背後にイエス様は近づき、呼びかけて下さったのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか?!」と。マリアは、イエス様が分かりませんでした。イエス様がそこにおられ、語っておられることが見えなかったのです。これは、私たちがしばしば味わうことと全く同じです。私たちが、自分の生活の中にイエス様がいないかのように感じる時、それは本当はイエス様がいなくなってしまったわけではありません。ただ私たちが気づいていないだけなのです。イエス様は、生きておられ、私たちの過ごすその場所に、私たちの歩む生活のただ中に、いつも共にいて下さいます。共にいて、常に私たちに向かって語りかけて下さるのです。残念ながら私たちの方がそれに気づいていないのです。マリアは、イエス様のことを園の手入れをする園丁だと勘違いし、この人がイエス様の遺体を動かしてしまったのだと思いました。そして、「そのご遺体を返して下さい。私が引き取りますから!」と訴えたのです。
その時にイエス様は語りかけて下さいました。「マリア!」と。この言葉は、ギリシャ語原文で読むと、普通の「マリア」という言葉とは少々違っていることが分かります。「マリアン」と書かれているのです。イエス様が語っておられたお言葉は、ギリシャ語ではなくて、アラム語でした。ヘブライ語が少しなまったような言葉です。イエス様が育ったのはガリラヤ地方で、ガリラヤ地方ではこのアラム語が使われていました。しかし、新約聖書が書かれた頃、キリスト教は異邦人世界にまで広まっていましたから、皆が読めるようにと、新約聖書は当時の世界共通語であるギリシャ語で書かれたのです。しかし、この「マリアン」というのは、ギリシャ語ではなくてアラム語です。実際にイエス様がマリアに呼びかけられたお言葉を、そのままに書き写したのでした。ギリシャ語ならば「マリア」なのです。そしてこのマリアをヘブライ語に訳すと「ミリアム」になります。都エルサレムに住む人たちはヘブライ語を話しましたから、彼らがマリアのことを呼んだならば、「ミリアム」と呼んだはずです。けれども、「マリアン」と呼びかけられた。今までマリアがイエス様と共に過ごした時に呼びかけられた、その懐かしい言葉の響きをそのままに、この時マリアは聞いたのです。「マリアン!」と。マリアは、この言葉を聞いて、ヘブライ語で「ラボニ」と答えました。これは「先生」という意味である、とここには注意書きが記されています。マリアの方も、実際にイエス様と一緒に過ごしている時に、イエス様に向かって呼びかけ続けた、あの懐かしい響きそのままに「ラボニ」とイエス様に語りかけたのです。こうして、イエス様が側にいて下さるのに気づかないという深い悲しみの時間は、一挙に喜びの時間へと変えられていったのでした。
私たちも、この恵みを、やはり知っているのではないかと思います。イエス様が側にいて下さるのに気づかない、こういうことを私たちは長い信仰生活の中で、何度も経験します。しかし嬉しいことに、私たちは、ある時に、イエス様が私に呼びかけて下さり、私もそれに応えてイエス様に呼びかけることが出来る、そういう喜びの時を、もう一度回復することが出来るのです。
この礼拝の時に、あるいは日々祈り、聖書を読む時に、私たちは、こういう喜びを味わうことがあるのではないでしょうか。「今日のこの御言葉は、他でもないこの私に向かって、直接、語りかけられたお言葉だ!」こういう喜びを、私たちはしばしば味わうことがあるのです。
時々、私はメッセージを語り終えた後で、その感想を聞かせていただくことがあります。「もうドキッとしました。何故、先生は私の心の中まで知っておられるのですか?今日のメッセージは、わたしのために語られたメッセージでした!」こういう意味のことを、私は時々聞くことがあるのです。先日も、ある姉妹から私はそういう言葉を聞きました。勿論、私は、そんな深いところまで見抜いて語っているわけではありません。私の思いとは違うところで、語ったメッセージがその方の心に届いていったのです。「本当に不思議だなぁ」と思わされます。メッセージを聞く一人一人に、聖霊が特別に働き、個別に「マリアン」と呼びかけて下さったのでしょう。
マリアの喜びは、本当に大きな喜びでした。喪失の悲しみは、すっかり癒やされました。イエス様が共におられ、懐かしい響きで呼びかけて下さったのです。そして自分も懐かしい響きで呼び返すことが出来た。イエス様と共に生きる喜びの人生が、再び動き始めたのです。