実りを与えて下さる主
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
ヨハネによる福音書 21章1節-14節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の物語は、私たちにある物語を思い出させるのではないかと思います。それは、ルカによる福音書第5章のペトロがイエス様の弟子になった時の物語です。それはイエス様がガリラヤ伝道に打ち込んでおられた時のことでした。ガリラヤ湖畔で群衆が押し寄せてきたために、イエス様は岸辺で説教しようとされたのです。けれども、あまりにも次から次へと群衆が押し寄せてきたものですから、それも出来なくなってしまいました。ちょうどその時に、この時と同じように、一晩中漁をしても何もとれず、全く空しい思いで失望感にさいなまれながらペトロたちが網を繕っていたのです。イエス様は、そのペトロたちをご覧になり、その舟に乗って、少し漕ぎ出すようにと頼まれました。そして舟の上から群衆に向かって説教をなさったのです。説教が終わると、イエス様はペトロに向かって、こう言われました。「沖にこぎ出して網をおろし、漁をしなさい!」と。これは常識的に考えると、全く馬鹿げたことでしょう。夜通し働き、漁に最もよい夜中に、しかもこの湖のことを最もよく知っている漁師たちが選んだ場所で、一匹も魚がとれなかったのです。そんな時に、漁のことは何も知らないイエス様が、もう一度、漁をしようと言われる。ペトロは、いくらでも断る理由があったと思います。「もう疲れ果てていますから、沖にまで漕ぐ力はありません。またの機会にしましょう!」と。けれどもペトロは、この後、すぐに沖へと漕ぎ出して行きました。何故でしょうか。ペトロの思い、ペトロの経験からすれば、これは明らかに馬鹿げたことでした。けれども、この時のペトロは、いつもとは違っていたのです。自分の力の無さを嫌と言うほど思い知らされ、徹底的に打ちのめされていたのでした。そんな時にこの出来事が起こったのです。ペトロは、「私の思いではなく、あなたのお言葉ですから、私はあなたのお言葉に賭けてみます!」と沖へと舟を漕ぎ出し、言われたとおりに網をおろしたのです。するとどうでしょう。驚くばかりの魚が捕れて、舟が沈みそうになった、と言うのです。ペトロは、この時に、自分と一緒に舟に乗っておられるお方が、どんなお方であるかに気づかされました。それは海の中の魚までも治めておられるお方です。こんなお方と一緒に舟に乗ることは出来ないとペトロは恐れおののき、イエス様の足下にひれ伏しました。するとイエス様は、「恐れることはない。今から後(のち)、あなたは人間を捕る漁師になる!」(ルカ5:10)とペトロに語りかけて下さったのです。こうして主は、多くの者たちを天国へと導く伝道の働きへと、ペトロを招いて下さったのでした。これがペトロの信仰の原点です。
イエス様は、今日の箇所で、もう一度、その出来事をなぞっておられます。ペトロたちが原点に立ち返り、最初の愛、最初の信仰、最初の熱心に立ち返ることが出来るように、そうやって、もう一度、立ち上がることが出来るようにと、ここで主はペトロたちを励まして下さったのです。
先週、先々週と私たちは、脅えて家に閉じこもっていた弟子たちに、復活のイエス様が現れ、本当に大きな喜びを届けて下さった、という物語を読みました。けれども、一端傷ついた彼らの心は、そう簡単に癒えるものではありません。復活のイエス様に出会い、彼らは本当に嬉しかったと思います。けれども、彼らの心の傷は想像以上に深く、すぐには立ち直ることが出来なかったのです。ヨハネによる福音書には、そういう弟子たちの心の動きが丁寧に描かれていると思います。他の福音書を見ると、そういう経緯が一切省かれていますから、復活のイエス様に出会って弟子たちは急激に変わり、いきなりバリバリと働き始めたかのようにも思えます。けれども、実際はそうではなかったのです。私たちと同じように、すぐには立ち直ることが出来ず、フラフラしながらも、少しずつイエス様の優しい御手の中で癒され、変えられていったのでした。
弟子たちはガリラヤを故郷とする人々でした。弟子たちがイエス様と共に活動したのも、ほとんどの期間がこのガリラヤでした。彼らの傷ついた心を癒すのは、やはりこのガリラヤでなければならなかったのです。イエス様もそのことをよくご存じでした。今日の物語は、弱り切った弟子たちが、この故郷ガリラヤにおいて、復活のイエス様と再び出会い、少しずつ癒され、少しずつ回復されていった、という物語です。
このように今日の物語は、ペトロが伝道に打ち込む決意をした物語と重なるような物語です。あの時、ペトロは、イエス様からこういうお言葉をいただきました。「恐れることはない。今から後(のち)、あなたは人間をとる漁師になる。」(ルカ5:10)。この「捕る」と言う言葉は、原文では「捕らえる」という言葉と「生かす」という言葉の合成語が用いられています。ここで言われているのは、ただ単に捕まえるというのではなくて、「生かすために捕まえる」「命を与えるために捕まえる」という意味のことが言われているのです。滅びの道を歩んでいる人々に対して命を与え、世間からも神様からも見捨てられてしまったとレッテルが貼られている人々に対して救いの手を差し伸べる。これがイエス様のお働きであり、使命でした。イエス様は、「この喜ばしい働きに、あなた方も参加して欲しい。滅びに向かって突き進んでいる人々に、まことの命に生きる道を指し示すように。あなた方は、そういう『人間を捕る漁師』になりなさい!」とペトロたちを招いて下さったのです。このことを、イエス様はもう一度、ここで繰り返しておられます。「元気を出して、あなた方は伝道に出かけていきなさい。滅びの道を突き進んでいる人々に向かって、まことの『命のパン』を差し出し、永遠の命へと導くように!」と主はペトロたちを励まして下さったのでした。
夜通し苦労したけれど、一匹も魚が捕れなかった。こういう疲れ果てるような経験を、教会はしばしばするのではないかと思います。けれども、そういう辛い夜が明けると、岸辺にはイエス様が立っておられます。「何も捕れなかったのではないか。子たちよ。そうではないのか?!」と言って下さいます。私たちがどんなに切なく、疲れ果てる思いをしてきたのかを、イエス様はちゃんとご存じです。その上で主は私たちを励まして下さいます。「船の右側に網を打ってみなさい」と。そうやって教会は、何度も主から力をいただきながら、また新たな伝道の働きへと促されていくのではないでしょうか。