日曜朝の礼拝「福音にふさわしく」

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福音にふさわしく

日付
説教
吉田謙 牧師
27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。・・・29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
フィリピの信徒への手紙 1章27節-30節

 パウロは、試練の中にあるフィリピの教会を励ますために、今日の29節のところで、このように語っています。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」キリストのために苦しむことが恵みなのだ、と言うのです。このことは、なかなか理解し難いことではないでしょうか。

 ここで言う苦しみとは、いったいどういう苦しみを指しているのでしょうか。それは、クリスチャンであり続けようとする時に、周囲から受ける圧迫や攻撃、自分自身の中で生じる葛藤のことを指しているのではないかと思います。具体的に言うと、パウロの時代においては、組織的な力によって、クリスチャンに及ぼされる迫害がありました。パウロも、またフィリピの教会の人々も、この苦しみを味わっていたのです。また、そのように、はっきりとした形で表れてくるものだけではなくて、私たちが信仰を貫こうとする時に生じてくる生活上の様々な労苦、あるいは、外からは分からない、一人一人の内面における信仰者としての葛藤も、ここで言う苦しみに入るのではないかと思います。

 では何故、このキリストのための苦しみが恵みなのでしょうか。パウロはローマの信徒への手紙の中で、このように語っています。「そればかりではなく、苦難をも誇りとしています。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」ローマの信徒への手紙5章3節、4節の御言葉です。

 私たちが受ける苦難は、色んなものに依り頼むのではなくて、ただキリストにのみ依り頼むことを学ぶために、神様が与えて下さる試練なのだ、と言うのです。私たちの周りには色んな拠り所が沢山ありますから、私たちは、ついつい神様以外のものに頼ろうとしてしまいます。神様は、そういう不甲斐ない私たちを、キリストにのみ依り頼む純粋な信仰者へと練り上げるために、あえて私たちに苦難をお与えになるのです。そうであるならば、この苦難は、キリストと私たちとをしっかりと結びつけようとする神様のご意志の表れであり、この苦難もまた神様からの恵みなのだ、と私たちも告白することができるのではないでしょうか。

 とは言え、苦難のただ中にある時には、なかなか私たちは、そのことを恵みとして受け取ることは出来ません。通り過ぎた時に、「ああ恵みだったなぁ」と思うことが出来たとしても、その苦難のただ中にある時には、それを恵みとして受け取ることは、弱い私たちにとって、それこそ至難の業でしょう。けれども、その時に本人がどう思っていようが、事実として苦難は恵みなのです。クリスチャンにとって、苦難は、信仰から離れさせようとするサタンの業ではなくて、私たちをキリストに強く結びつけようとする神様の恵みの御業なのです。

 パウロは、苦難の中にあるフィリピの教会に対して「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい!」と勧めました。福音がその人の生き方そのものになっていくためには、繰り返し福音を聞き続ける必要があります。ですから、「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」というのは、もっと具体的に言うならば、「キリストの福音に聞き続けなさい」ということになるでしょう。パウロは、弱い私たちが、苦難の中にあっても、そこに神様の恵みを見出すということが、そう簡単なことではないことをよく知っていました。だからこそパウロは、福音がその人の生き方そのものになり、苦難が恵みだと心底受けとめて、平安に生きることが出来るようにと、まずはただひたすら福音に聞き続けなさい、と勧めたのです。ここに私たちが苦難を乗り切るための秘訣があると思います。

 母教会の月報に、以前、私と同世代のある姉妹の文章が掲載されていました。こういう文章です。「若い頃もこれからも、私が歩いて行く道は穴だらけの道のようです。でも、同じような道でも、歩いている私は昔の私ではありません。神様に出会う前の私は、穴にはまると、落ちた自分を責め、後悔し、嘆き、人を責め、恨み、そうすることで、ますます穴を深くしていました。自分独りで抜け出そうとして思い煩い、心はそのことでがんじがらめにされていました。平らな道を歩いている時でさえ、穴に落ちたらどうしようといつも不安でした。神様を信じた後も、最初の頃は、すぐに助けを祈り求めることができませんでした。祈っても、本当に助けて下さるだろうかと不安でした。思い煩いをすべて神様に委ねることができませんでした。また、なかなか助けが来ないと、神様の存在さえ疑ってしまうこともありました。そんな弱い私を神様は恵みによって赦し、変え続けて下さいました。今、私は以前に比べてずいぶんと変えられました。穴に落ちたと気づいたら、すぐに「祈ること」ができるようになりました。いつどのように助けられるのかは、神様の御心のままであり、自分の思い通りではないことも分かっています。穴の中にいても、主がいつも側にいて下さることも分かるようになりました。もう思い煩いが心を縛り付けることはありません。神様に頼れば、本当に自由で平安です。」こういう証しです。

 この方は決して立派な生活をしていたわけではありません。失敗しても、その都度、罪赦されながら、毎日、新しく出発することが出来る。どういう状況の中にあっても、永遠の命の希望と喜びと平安に生きることが出来る。この福音に感動しながら、ただこの福音の喜びに生きていただけです。これは、失敗を繰り返しながらも、諦めずに福音を聞き続けていく中で、少しずつ福音がこの人の内側で息づいていった、という生きた証しではないでしょうか。

 様々な苦しみがあり、中には耐え切れないような日々を過ごしておられる方々もいらっしゃるかもしれません。しかし、そのような時にこそ、諦めることなく、この福音に聞き続けていきましょう。その時に福音は、その人の内側で息づき、少しずつ福音にふさわしく生きることが出来るようにされていきます。そして、やがてはどんな苦難の中にあっても、決してたじろぐことなく歩むことが出来るように、神様によって造り変えられていくのです。そのことを信じ、これからも絶えずキリストの福音に聞き続けていきたいと思います。

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