教会の一致と謙遜
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
フィリピの信徒への手紙 2章1節-5節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の箇所でもパウロは、先週に引き続き、教会の一致について教えようとしています。パウロは、教会が一つになるための一つの手がかりとして、「へりくだり」、即ち「謙遜」を勧めました。そして3節のところには、その謙遜とは、いったいどういうことなのかが説明されています。「なにごとも利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
ここで「へりくだる」ことが、相手を自分よりも優れた者と考えること、と言い換えられています。「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい!」そうやって自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払うことこそ、へりくだりの決め手なのだ、とパウロは教えたのです。この相手を自分よりも優れた者と考えるというのは、能力や才能のことではありません。能力や才能であるならば、そこには明確な基準がありますから、たとえそれを無視して、「私よりもあなたの方が優れていますね」と言ったところで、それは明らかに嘘になってしまいます。「相手を自分よりも優れた者と考える」というのは、そういう能力や才能のことではなくて、もっと根源的なこと、人間としての大切さ、尊厳ということを思い描いているのだと思います。イエス様の模範を考えるならば、このことは明らかでしょう。能力や実力という点からするならば、私たちは到底イエス様の足下に及ぶ者ではありません。人格という点から言っても、私たちは、到底、イエス様の足下に及ぶ者ではないのです。けれどもイエス様は、私たちのことをご自分よりも大切な存在として受け止め、私たちを救うために、神の独り子としての栄光を打ち捨てて、十字架に命を捨てて下さったのです。そして、それは私のためだけではなくて、あの人、この人のためでもありました。私たち一人一人は、そういうイエス様から見て、本当に尊い、決して失われてはならない、掛け替えのない大切な大切な存在同士なのです。ですから、イエス様が尊ばれるその人を私たちが蔑ろにするならば、それは即ちイエス様を蔑ろにすることになるでしょう。そういうわけでパウロは、「あなた方はイエス様から見て本当に愛おしく、尊い存在である者同士なのだから、自分のことだけでなく、あの人、この人のことにも心を配りなさい。その喜びや悲しみ、あるいはその必要についても心を配るように!」と勧めたのでした。
私たちは、自分が価値のない、くだらない人間であることに、どうしても耐えることが出来ません。ですから、自分には価値があり、立派な人間であることを、なんとかして証明したいのです。私たちが人を見下したり、人よりも優位に立ちたいと考えるのは、そういう理由からではないでしょうか。3節で言われている「利己心や虚栄心」というのは、そうやって生まれてくるものでしょう。人を見下すことによって、自分の生きる価値を見出していく、これは、あまりにも空しい人生ではないかと思います。こういう思いが人間関係を駄目にしてしまうのだと思います。けれども、幸いなことに私たちクリスチャンは、そういう生き方からは既に解放されています。聖書の御言葉は、「天地万物を造り、今も統べ治めておられる神様が、御子を十字架に犠牲にするほどまでに、私たちを愛し抜いておられ、私たちはそれほどまでに値高く、尊く、掛け替えのない存在なのだ!」と教えてくれています。この御言葉は、私たちに生きる力と希望を与えてくれるものではないかと思います。もう他の人と比べて、自分の方が立派なのだ、と人に見せつける必要はありません。自分で自分に納得させる必要もない。もう安心して他の人のために生きてよいのです。それによって自分の人生が壊れてしまうこともありません。それは、神の御子イエス・キリストが、「あなたは、私が十字架の上で命を捨てた程に高価で尊い存在なのだ!」と、本当にへりくだって私たちに仕えて下さるからです。私たちは、もうこれ以上の偉さを身につける必要はないのです。そういうわけでイエス様の愛に支えられている私たちなら、安心して他の人を自分より優れた者と認めることが出来るのではないでしょうか。
教会には色んな人がいます。一見するとバラバラのように見えるのかもしれません。けれども、本当はそうではないのです。あなたも私も、イエス・キリストによって掛け替えのない大切な存在として愛され、支えられている。またあなたも私も、このイエス・キリストを心から慕い求め、愛している。この点で、皆(みな)一致しているのです。この一致は、共産圏のような、皆(みな)同じように考え、皆(みな)同じように行動するという一致ではありません。お互いの個性を重んじ、お互いの違いを認め合い、お互いの存在の大切さを尊重するのです。一見バラバラのようには見えますが、しかし最も深いところでは、イエス・キリストに愛され、イエス・キリストを愛している者同士として、しっかりと一致しています。これがキリストの教会の真実の姿ではないかと思います。時には意見の不一致があり、衝突することもあるのかもしれません。けれどもそれは、イエス様を愛する表現方法が一人一人違っているからであって、お互いにイエス様を愛していることには何ら変わりありません。そうであるならば、何も心配する必要はないのです。
私たちも、へりくだりのキリストを模範とし、またそれに支えられながら、この謙遜の道筋を辿っていきたいと思います。そして、パウロが目指したように、キリストに結ばれた者同士として、互いの欠けや弱さは補い合い、互いに慰め合い、支え合っていく、そういうキリストの体なる共同体をしっかりと建てあげていきたいと思います。