日曜朝の礼拝「キリストを誇る」

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キリストを誇る

日付
説教
吉田謙 牧師
2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。3 彼らではなく、私たちこそ真(しん)の割礼を受けた者です。私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
フィリピの信徒への手紙 3章1節-8節

 今日の箇所でパウロは、フィリピの教会の人々が間違った教えに惑わされないようにと非常に厳しい口調で警告しています。ここでは、注意すべき相手のことが、「よこしまな働き手」と言われています。これは、人々を間違った信仰へと導こうとする指導者のことを言い表しているのです。フィリピの教会には、間違った信仰に導こうとする人々が忍び込もうとしていたのでした。更に、この人々のことが、「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」とも言われています。ユダヤ人は、旧約聖書に記されているように、神様に特別に選ばれた神の民でした。神の民というのは、神様に愛され、神様に守られ、神様と共に生きることが出来る民、という意味です。神様はユダヤ人を神の民として特別にお選びになり、その神の民であることのしるしとして、ユダヤ人の男子は皆、割礼を受けるように、と命じられていました。具体的には、ユダヤ人の男子は皆、男性の包皮に傷をつけるように、と命じられていたのです。そういうわけで、割礼はユダヤ人のしるしであり、またユダヤ人であることは神の民であることのしるしでした。しかし、ここで私たちが注意しなければならないことは、神様が、このユダヤ人を特別に選ばれたのは、ユダヤ人だけを救うためではなかった、ということです。ユダヤ人がまず選ばれたのは、このユダヤ人を通して、やがてすべての人間に救いが及んでいくためでした。主なる神様は、イスラエルの最初の先祖アブラハムに、このように約束しておられます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12章2-3節)。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る!」と神様はアブラハムに約束なさいました。これは、アブラハムに与えられた祝福が地上の氏族すべてに及んでいく、ということでしょう。神様がアブラハムを選び、ユダヤ人を神の民とされたのは、ユダヤ人のみを救い、祝福するためではありません。そうではなくて、そのユダヤ人の歩みを通して、地上の全ての民にも、神様の救いの恵みが及んでいくためでした。つまり、ユダヤ人は、神様の祝福が全ての人々に及んでいくために、神様に用いられる、ということです。そして、やがてこの神様のご計画が実現しました。ユダヤ人としてお生まれになった神の子イエス・キリストが、私たち人類の罪を全部背負い、神様の怒りと呪いを全部引き受けて、あの十字架の上で、身代わりの死を遂げて下さったのです。そのことによって今や、地上の全ての民が救いにあずかることが出来るようになったのでした。

 ところが、クリスチャンになったユダヤ人たちの中に、自分たちが元々神様に選ばれた神の民であることを誇り、キリストの救いを受け取るためには、ただ福音を信じるだけではなくて、割礼を受け、ユダヤ人にならなければならない、と主張する人たちが現れたのです。そして彼らは、割礼を受けていない異邦人のことを、クリスチャンをも含めて「犬」呼ばわりし、侮辱していました。ここでパウロが彼らのことを「あの犬どもに注意しなさい!」と厳しい口調で責め立てているのは、割礼を受けていないクリスチャンのことを「犬」呼ばわりするあなたたちこそ、神様の救いの御心が全く分かっていない「犬」なのではないか、と言いたかったからでしょう。

 続く3節のところでパウロは、このような間違った教えに対して、本当の神の民とはどういうものであるかを、はっきりと示しました。3節。「彼らではなく、私たちこそ真(しん)の割礼を受けた者です。私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

 ここでパウロは、本当の神の民の特徴は、自分の熱心によって礼拝を捧げるのではなくて、聖霊に導かれて礼拝を捧げ、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないことだ、と言いました。この「誇りとする」という言葉は、「生きる根拠とする」、あるいは「救いの根拠とする」と言い換えてもよいでしょう。イエス・キリストの恵みにのみ救いの根拠を見出し、それにのみ依り頼む。要するに、イエス・キリストの恵みだけで十分であり、それ以外のものに救いの根拠を見出さない、ということです。割礼に頼る人は、このキリストの恵みだけで十分なのだということがまるっきり分かっていません。割礼に代表される自分の業を、救いの一つの根拠にしようとしているのです。これは即ち、キリストの十字架の恵みだけでは不十分であり、他の何かを付け加えなければならない、ということです。これはキリストの十字架の恵みを蔑ろにする、とんでもない考え方であり、パウロは、こういう考え方に対して、猛烈に抗議したのです。「キリストだけで十分であるはずなのに、何故あなた方は他のものを付け加えようとするのか?!」「何故あなた方は他のものに頼ろうとするのか?!」と。

 続く4節から8節の前半には、パウロの信仰の証しが記されています。証しというのは、自分自身の信仰の体験を話す、ということです。パウロは肉に頼らず、キリストのみに救いの根拠を置くということがどういうことなのかを、自分自身の信仰の体験を通して、教会の人々に伝えようとしたのでした。教理的なことをただ教えるだけではなくて、生きた実例として、ほらこの通り、かつての私は誰にも負けないくらい肉に頼っていたけれど、イエス・キリストとの出会いを通して、それがいかに空しい生き方であるかを悟った。今ではそういう生き方を糞土のように思っている、と自分の経験から得た真理をここで証ししようとしているのです。パウロは、自分自身の中にある拠り所を徹底的に打ち砕かれ、キリストの恵みを誰よりも豊かに味わった人でしたから、このキリストの恵みを蔑ろにする誤った教えに対しては、決して譲ることが出来なかったのでしょう。

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