インマヌエル
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」マタイによる福音書 1章18-25節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは旧約聖書のイザヤ書7章14節の御言葉です。マタイは、救い主イエス・キリストの誕生こそ、この預言者イザヤの預言の成就なのだ、と言うのです。さらにマタイは、この「インマヌエル」という言葉は、「神は我々と共におられる」という意味である、と解説しました。
そもそも、ここで引用されているイザヤ書7章14節の御言葉が、どのような状況の中で語られたのかを確認しておく必要があります。この言葉は、もともとは、預言者イザヤが南ユダ王国のアハズ王に語った言葉でした。時代はイエス・キリストの誕生から、さらに730年ほど前に遡ります。この頃、ユダヤの国は北イスラエル王国と南のユダ王国の二つに分裂していました。そして、丁度この時、南のユダ王国は、回りの国々から攻め込まれて、非常に危機的な状況を迎えていたのです。その時に、預言者イザヤがアハズ王に遣わされて、こう告げました。「ジタバタしてはいけない。慌てて拙速な行動に出ないように。今はじっと静かにしていなさい。そうすれば、この国は守られる!」と。ところが、アハズ王は、この預言者イザヤの忠告を無視し、拙速に大国のアッシリアと同盟を結んでしまったのです。要するに彼の心の内にあるのは、「こんな大変な時に、神様だ、信仰だ、などと悠長なことは言っておられない!」という思いでした。神様は、アハズ王のこの心の内側をちゃんと見抜いておられました。そこで神様は、預言者イザヤを通して、こう告げられたのです。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、私の神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」イザヤ書7章14節の御言葉です。
「インマヌエル」「神は我々と共におられる」というこの言葉は、もともとは、それほど喜ばしい響きを持っていませんでした。アハズ王の不信仰も不従順もすべてお見通しの神様が共におられるということは、要するに裁きを意味していたのです。事実、神様を差し置いて頼ろうとしたアッシリアという大国に、逆に南ユダ王国は攻め込まれ、これまで味わったことのないような苦しみの日々を味わうことになってしまったのでした。このように、私たちに罪がある場合、神が共におられることは単純に救いとは言えないのです。いやむしろそれは裁きを意味していたのでした。けれども、クリスマスの物語は、単にインマヌエルと呼ばれるお方の誕生を語っているだけではありません。その前にこう語られていたのです。21節。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
主の天使は、生まれてくる子供を「イエス」と名付けるように、とヨセフに命じました。そして、このイエスという名前には、「この子は自分の民を罪から救う」という意味がある、と告げたのです。人間は古代から現代に至るまで数多くの苦悩を背負い続けてきました。しかし聖書は、そのような目の前に横たわっている様々な苦悩ではなくて、その背後にある根本的な悲惨を見つめています。では、その根本的な悲惨とは何でしょうか。それは、神を失っているという悲惨です。
この世界は、本来、神様が造られた素晴らしい世界です。私たちも神様に造られた者であり、神様に望まれて、この世界を生き始めました。ところが私たち人間は、造られた神様に背を向けて、自分勝手な生き方をし始めたのです。その時に、この素晴らしい世界が住みづらい世界になっていった。私たちの人生も空しく、悲惨なものになっていった。当然のことでありましょう。そもそも私たち人間は、神様と共に生きるようにと造られたわけで、その神様から離れて生き始める時に、その人生が空しくなるのは当然です。この世界が住みづらくなるのは当然であります。これは私たち人間の責任です。私たちの罪が問題なのです。神が共におられるということが裁きにしかならない、この現実こそが、人間の最大の悲惨と言えるでしょう。それゆえに、私たちに本当に必要なのは、この神様との交わりを妨げている罪の問題の解決でした。私たちが救われるためには、どうしてもこの罪の赦しが必要だったのです。
私たちは何よりもまず罪から救われなければなりません。そのために神様は、救い主を、真(まこと)の人間として、この世にお遣わしになりました。それは私たち人間を救うためです。神様は救い主を、ただの人間としてこの世に遣わし、私たち人間の代表として下さったのです。そして、本来、私たち一人一人が受けなければならなかった神様の罰を、この人間の代表であるイエス・キリストに背負わせ、十字架の上で罰せられたのです。この十字架のイエス・キリストにおいて、神に逆らった人間に対する神の審きが完全に貫かれました。そして、そこで同時に、私たちの罪が裁かれ、罰せられたのであります。もう私たちは裁かれる必要がありません。完全なる赦しが与えられたのです。
私たちは、この「イエス」と名付けられたお方によって罪から救われました。「罪から救われる」というのは、罪が赦されて、神様と和解することが出来る、もう一度、神様と共に生きることが出来る、ということです。そして、この「イエス」と名付けられたお方、私たちに罪の赦しを与え、神様との和解を与えて下さったお方がインマヌエルと呼ばれる、と言われているのです。ここに、今日の物語を解く鍵があります。罪赦された時に初めて、神が共におられることが喜びとなり、力となり、希望となるのです。もう私たちは、「神様から裁かれるのではないか?!」「呪われるのではないか?!」と、いつもビクビクしながら、神様から身を隠そうとする必要はありません。神様がいつも共にいて下さることを、本当に心の底から喜ぶことが出来るのです。