日曜朝の礼拝「暗闇を照らす光」

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暗闇を照らす光

日付
説教
吉田謙 牧師
9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
マタイによる福音書 2章1節-1節節

 東の国の占星術の学者たちが、星に導かれて、この地までやって来ました。その目的は「ユダヤ人の王としてお生れになった方を、拝みに来たためだ」と言うのです。ここでいう東方というのは、おそらくアッシリアとかバビロニア、あるいはペルシャのことであっただろう、とよく言われます。昔、ユダヤの国は、アッシリアやバビロニアの国に捕らえられたという悲劇的な経験をしました。言うなれば、これらの国は、ユダヤ人たちにとっては憎き敵なのです。おそらく、そういうことも関係していたのでしょう。実は、この「東」と言うのは、聖書の中では、あまり良い意味では出て来ません。例えばアダムとエバは、楽園を追放されて、園の東に住んだとされています。アベルを殺したカインも、エデンの東のノドの地に住みました。バベルの塔を建てて、神様に対抗しようとした人たちも、東の方から移動して来た、と書かれています。ヨナも、神様に抗議して、ニネベの町の東に小屋を建てて、そこに住みました。つまり、「東」というのは、神様から逃げ出し、神様から離れた場所、罪に覆われた暗闇の場所を象徴していたのです。

 当時のバビロニアやペルシャといったイスラエルから見れば東の国々では、このような占星術の学者が大変活躍していました。彼らは天体を観測し、その動きから個人だけでなく、国家の運命まで占っていたようです。ですから彼らは、ただの「占い師」ではなくて、国家の方針を決める重要なポストについていたのです。また、バビロニアやペルシャには、ユダヤ人が多く住んでいました。と言うのも、バビロン捕囚から解放された時に、エルサレムに戻らずに、そのままバビロンに留まり、そしてバビロンが滅んだ後はペルシャに留まったユダヤ人たちも、相当数いたからです。例えば、ダニエルやエステルなどが、その代表的な人物と言えるでしょう。おそらく、この占星術の学者たちは、不思議な星が現れて、それについて色々と調べている内に、ユダヤ人たちから旧約聖書に預言されている救い主の誕生の話を聞いたのではないかと思います。しかし、ただそれだけの情報だけで長旅に出るのは、相当な覚悟が必要です。今のように交通が整備され、安全が保証されている時代ではありません。長旅に出るというのは、将に命懸けだったと思います。何故、彼らは、そんな思い切った行動に出たのでしょうか。彼らは政府の高官であり、決して生活に困っていたわけではありません。きっと何不自由ない優雅な暮らしをしていたのでしょう。けれども、たとえどんなに多くの物で満たされていたとしても、それだけではどうしても満たすことの出来ない心の飢え渇きがあります。あるいは、どんなに重装備で自分の周りを守り固めたとしても、どうしても払拭できない不安があるのです。彼らは、東の国、つまりユダヤ人からすると罪の世界、暗闇の世界の住民でした。きっと彼らには、心の飢え渇きや、言いようのない不安があり、闇の中で光を求めるような切実な思いがあったのではないかと思います。そういう思いがなければ、決してこの一歩を踏み出すことは出来ません。

 彼らは、最初から正しい信仰をもって、旅に出かけたわけではありません。最初彼らは、星占いによって旅立つことを決心したのです。神様は、星占いの道が間違っていることを、よくご存知でした。しかも、彼らが外国人で、他の宗教を信じている異教徒であることもよくご存じでした。そういう意味から言うならば、彼らには、イエス様にお会いし、その喜びを味わえるような資格など全く無かったのです。けれども、神様は彼らに対して一方的に恵みを注がれました。最初、彼らは間違った道から入りました。けれども、彼らは神様によって少しずつ少しずつ整えられて、ついにイエス様の前にひれ伏す時には、本当の信仰をもって礼拝出来る者へと造り変えられていったのでした。

 今日の物語において、占星術の学者たちは、長い旅路の末にイエス様に出会い、イエス様を礼拝することが出来ました。けれども、聖書を読む時に私たちは、そのように学者たちが長い旅路に出る前に、実はイエス様ご自身が命懸けで遠く天から地上にまで旅して下さった、ということを知るのです。命懸けで長い旅に出たのは、学者たちてある前に、神様ご自身でした。聖書から私たちが教えられるのは、このキリストの驚くべき恵みなのです。

 「東」は、神様から逃げ出した場所、神様から離れた場所、即ち、罪に満ちた闇を意味する、と先程は言いました。けれども、新約聖書には、明け方に東の空に輝く「明けの明星」という言葉も出てきます。ペトロの手紙二1章19節です。この「明けの明星」は、キリストを指し示している言葉です。罪で覆われた闇を照らす光として、キリストは私たちのもとにやって来られました。今日の物語は、罪に汚れた闇の象徴である東の国からやって来た占星術の学者たちが救われた、という物語です。これはイエス・キリストがどのようなお方であり、何のためにこの世においでになったのかを、見事に言い表した物語ではないかと私は思います。

 どんなに目の前の現実が暗くても、私たちがたたずむ東の空には、既に「明けの明星」が輝いています。これは決して他人事ではありません。今、生きることに空しさを覚えている方々。暗闇の中で、誰もこんな苦しみなんか分かってくれないと孤独を感じている方々。病や肉体の衰えに不安を覚えている方々。毎日の生活に疲れを覚え、嫌気がさしている方々。様々な問題を抱えて、今将に八方ふさがりの方々。そういうあなたの暗闇を照らし、あなたを救うために、そういうあなたが、あなたらしく輝いて生きることが出来るように、イエス・キリストはこの世にお生まれになりました。このことを今日、あなたが心を開いて受け入れるならば、その時に本当のクリスマスの喜びが、あなたにもきっと与えられることでしょう。節節

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