日曜朝の礼拝「前に向かって生きる」

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前に向かって生きる

日付
説教
吉田謙 牧師
13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
フィリピの信徒への手紙 3章12節-14節

 13節に「後ろのものを忘れ」とあります。これはいったい何を指しているのでしょうか。おそらく、4節から6節のところで既に述べられていたような、パウロのかつての誇りに満ちた事柄も、その一つにあげられるのではないかと思います。このことは8節のところでも、「それらを塵あくたと見なしています。」と既に語られていました。また、パウロが回心した後に伝道者としてなしてきた様々な働きも、この「後ろのもの」の中に入るでしょう。過去の伝道者としての素晴らしい働きが、自分の救いの根拠になるわけではありません。救いは、あくまでも神様の恵みによるのであって、過去の栄光に満ちた働きに執着するのではなくて、むしろそれらはきっぱりと忘れるべきなのです。これがパウロの考え方でした。

 しかし、過去のことは全て忘れてしまってもよいのでしょうか。パウロは、ここでそんなことを言おうとしているのではありません。信仰において、どうしても忘れてはならない大切な事柄があります。パウロにとって、復活のキリストとの衝撃的な出会いは忘れることの出来ない事柄でした。私たちにとっても、そういう忘れることの出来ない事柄が幾つかあると思います。例えば、洗礼を受けた時のことは、決して忘れてはならないことでしょう。このように、私たちにはどうしても忘れてはならない事柄がありますから、そのことまでここで忘れるようにと言っているのではありません。

 私たちには、色んな過去があります。あんなことをしてしまった、こんなことをしてしまった、神様に顔向けが出来ない、そういう忌まわしい過去が私たちには一杯あるのではないかと思います。パウロは、かつてはキリストの教会を迫害し、キリストを信じる者を牢に捕え、また殺すことにも加担していました。それは、神様に逆らい、隣人をも傷つけるような、とんでもない大きな罪でした。おそらくパウロにとって、自分の罪は、思い出す度に身悶えするほどに、暗く、恥ずかしく、心えぐられるようなものだったに違いありません。また、そのような罪を、パウロは、一時も忘れることがなかったと思います。けれどもパウロは、復活のイエス・キリストとの出会いを通して、心から悔い改め、キリストを信じる者となりました。この罪に捕えられていたパウロを、キリストがご自分の十字架の死によって、その罪から解放して下さったのです。「あなたの犯した過ちや失敗、それら全ての罪を私があの十字架の上で全部担った。もうあなたには神の怒りや呪いは向けられない。あなたの罪は赦された。だから、もうくよくよせずに、前を向いて、あなたが為すべきことに力を注ぎなさい!」と主は励まして下さったのです。こうしてキリストがご自分の手でパウロをしっかりと捕え、迫害者パウロではなくて、神の僕、伝道者パウロとして召し出し、彼の歩むべき道をはっきりと指し示して下さったので、彼はもう罪に翻弄されることがなかった。むしろ自分の罪をしっかりと見据えつつ、それによって支配されることなく、前を向いて、ただひたすら走ることが出来たのです。

 宗教改革者ルターは、私たちクリスチャンのことを、「義人にして、罪人である」と言い表しました。私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、義と認められています。けれども、なお罪を犯す罪人です。このことを真剣に受けとめている人は、もう神様に義と認めていただいたのだから、どのように生きてもかまわない、好きなように生きよう、とは決して思いません。そうではなくて、少しでも神様に喜ばれるように生きたいと願い、神様を愛し、隣人に仕えて生きようと、精一杯、感謝の生活に励むのです。けれども、私たちは本当に弱いですから、すぐに脇道にそれたり、躓いたり、転んだりと、何度も失敗を繰り返してしまいます。しかし、そこで私たちは諦めてしまうのではなくて、その度に心から悔い改めて、イエス様の十字架の贖いによって赦していただきながら、また新たな思いでやり直していくのです。そのような繰り返しの中で、私たちは少しずつ少しずつ成長していくのではないでしょうか。目標を目指してひたすら走るというのは、そういう生き方を言うのです。

 またパウロは、同じことを、このように言い表しました。14節。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

 まず神様の方が、キリスト・イエスを通して、私たちのことを熱心に招いておられ、上へと引っ張り上げようとしておられる、と言うのです。目標を目指してひたすら走る生き方が、息苦しくなるのは、それが全部自分の頑張りにかかっているからです。頑張らなければ目標に達することが出来ない、頑張らなければ落ちてしまう。これでは、たちまち疲れ果ててしまいます。けれども、神の国の完成という目標に向かってひたすら走り続ける生き方は、頑張らなければ達せられない、というものではありません。神様が上から呼んで下さいます。キリストが私たちをしっかりと捕らえていて下さいます。ですから私たちは、嫌々走り続けて疲れ果てるのではなくて、喜びと希望をもって走り続けることが出来るのです。

 私たちは、もう既にキリストに捕えられています。たとえ私たちが不完全な者で、歩みがおぼつかず、弱々しく、よろめいてしまっても、キリストの御手は力強く、確かなのです。キリストの御手は私たちを捕らえて離しません。私たちが自分の弱さを痛感し、不安を覚え、苦しみを覚える時にこそ、ますますこのキリストの御手に頼り、すがるべきではないでしょうか。

 私たちが信仰において前に向かってひたすら走るというのは、決して自分の力で走り抜くことではありません。そうではなくて、私たちを愛し、私たちを捕らえて離さないキリストに、私たちがますます頼り、恵みを求め、近付きたいと願うことなのです。そのようにして、弱い自分をもっと神様に委ねること。もっと恵みを求め、神様と共に生きる喜びを深く味わいたいと願うこと。そして、神の国と復活の約束への希望を、ますます募らせ、祈り求めていくこと。それこそが前のものに全身を向けつつ、ひたすら走り続ける信仰の歩みなのではないかと思います。

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