日曜朝の礼拝「誓ってはならない」

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誓ってはならない

日付
説教
吉田謙 牧師
33 また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。・・・
37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。
マタイによる福音書 5章33節-37節

 今日の箇所でイエス様が教えられたことを、一言で言い表すならば「一切、誓いを立ててはならない!」ということです。この教えは、私たちを戸惑わせるのではないかと思います。何故ならば、今、私たちが地上の生涯を歩もうとする時に、この誓約という行為は、どうしても避けて通ることが出来ないからです。また聖書においても、必ずしも誓いが禁じられているわけではありません。それではイエス様が、ここで教えられた「一切誓いを立ててはならない」という教えは、どう考えればよいのでしょうか。

 そもそも、この山上の説教の教えは、文字通り、その通りにしなさいという規則ではなくて、このような衝撃的な言い回しによって、イエス様には、どうしても人々の心に刻み込みたいメッセージがあったのです。

まずイエス様は、その頃、イスラエルで当たり前のようにして行われていた神様以外のものにかけて誓う誓いを禁じられました。34節以下のところには、天や地やエルサレムや自分の頭を指して誓うことについての言及があります。イスラエルの人々は、小さな問題で誓いを立てる時に、わざわざ神様の名前をもち出すことにためらいを覚えました。そこで彼らは、神様を指して誓う代わりに、天や地や都や自分の頭を指して誓い始めたのです。しかしイエス様は、何にかけて誓ったとしても、それは神様にかけて誓ったのと何ら変わることがない、と言われました。もし神様の名前を避けて誓うことによって、破ってもよいような軽い誓いをすることが出来ると考えているのなら、それはとんでもない勘違いである。そんなことを考えているのなら、あなた方は一切誓ってはならない、と主は言われたのです。そういうわけで、「一切誓いを立ててはならない」という今日の御言葉は、「私たちの全ての言葉が、誓いを立てた時と同じように真実のものでなければならない」という教えです。誓いを立てていないから、「イエス」と言うべきところを「ノー」と言ってみたり、「ノー」と言うべきところを「イエス」と言ってみたり、そういういい加減な言葉を語ってはならない。誓いを立てなくても、「イエスはイエス」、「ノーはノー」、「然りは然り」、「否は否」と真実の言葉を語らなければならない、と主は教えられたのでした。

 私たちが日ごとの生活の中で、いつでも「然りは然り」、「否は否」という真実を貫いているならば、私たちはいちいち誓わなくても信じてもらえるはずです。誓うことで信じてもらえるというのは、裏返して言うならば、誓わないでいると信じてもらえない。嘘かもしれないと思われてしまう、ということでしょう。要するに信頼し合う人間関係とは程遠いところで誓いが交わされているのです。これでは、最後には誓っても誓っても信じてもらえない、というところに行き着く他はありません。

 国会では、しばしば政治家が証人喚問されることがあります。そこでは真実だけを述べることが誓われ、約束されます。けれども、私たちはそれがいかにいい加減なものであるかを、今まで嫌と言うほど思い知らされてきました。ですから、たとえそこで真実が述べられていたとしても、もう国民は心から信じることが出来なくなってしまったのです。これはとても不幸なことですね。誓っても誓っても信じてもらえない。イエス様は、そういう信頼されない生き方に対して、強い憤りを覚えられました。そして、「一切誓ってはならない!」という衝撃的な言葉で、このことを言い表されたのです。ですから、互いの信頼をより促進していくような仕方で誓われる誓いなら、本当は禁じられていないのです。例えば、結婚式の時に、互いの愛を誓い合うことで、夫婦は更に深い信頼関係に進んでいきます。あるいは、洗礼式の時に、神様に誓うことで、信仰者は更に深く神様と結び合わされることになります。パウロが誓ったのも、相手の誤解によって崩れかけた信頼関係を、もう一度立て直すためのものでした。誓いというのは、そのように正しく、また真剣に用いるならば、むしろ互いの信頼関係を深めていく上で大いに役立つものなのです。

 旧約聖書にエノクという人の生涯が紹介されています。「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:21-24)。ここではエノクは、「神と共に歩んだ」と言われ、「神が取られたのでいなくなった」と言われています。これは、エノクは生きたまま神様のもとに召される、という祝福が与えられるほどに、神様と共に歩んだ信仰深い人であった、ということでしょう。

 偽りを捨てるというのは、結局は神様と共に歩む、ということなのです。ある時は、今は都合が悪いので神様に自分を隠しながら生きるというのではなくて、いつも神様と共に歩むのです。私の一番奥深くにある嫌なところまで見通しておられる神様。私の一番汚れた、恥ずかしいところまで、いつも見ておられる神様。この神様のもとから逃げるのではなくて、この神様と共に生きるのです。イエス・キリストの十字架によって、この生き方は、エノクのような人生の達人だけではなくて、私たちにも出来る生き方になりました。私たちが罪を犯し、こんな惨めな姿では、恥ずかしくて、恐ろしくて、とても神様の前に出ることが出来ないという時にも、神様はイエス・キリストを通して私たちの罪を覆いながら呼びかけて下さいます。「辛くて、悲しくて、空しくて、どうにもならなくて、藻掻いているあなたは、いったいどこにいるのか。あなたは自分自身の弱さや汚れや罪に嫌気がさしているのかもしれない。こんな傷があったなら、もう取り返しがつかないと、人生を諦めかけているのかもしれない。でも、大丈夫。あなたの罪は赦されている。あなたの罪は、御子イエス・キリストの十字架の贖いによって全て贖われた。だから、あなたは、もう逃げ回らなくてもよい。安心して私のもとに帰ってくるように!」と。そういうわけで私たちは、もう神様の前から逃げ出す必要はありません。イエス・キリストが私たちの罪や汚れを全部覆って下さるからです。私たちは、このイエス・キリストと結ばれることによって、安心して神様の前であるがままの自分をさらけ出すことが出来る。偽りを捨てることが出来る。真実を語ることが出来るのです。 

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