日曜朝の礼拝「主の再臨の希望」

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主の再臨の希望

日付
説教
吉田謙 牧師
33 それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。・・・ 35 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
マタイによる福音書 24章29節-35節

今日から私たちは、クリスマスを前にしたアドベントの時を過ごします。このアドベントという言葉は、もともとはラテン語の「アドベニレ」という言葉から生まれた言葉です。もともとこれは「到来」を意味する言葉であり、そこには、勿論、イエス様がこの世にお生まれになった第一の到来であるクリスマスに思いを馳せるという意味が込められています。しかし、ただそれだけではなくて、このアドベントには、キリストの第二の到来、即ち世の終わりの時にもう一度来て下さる再臨のイエス・キリストを待ち望む、という意味も込められているのです。つまり、かつてのイエス様の誕生の時を感謝をもって思い起こすと共に、やがて終わりの時に再び来られるイエス様を喜びをもって待ち望む、これがアドベントの相応しい過ごし方なのです。そういうわけで今日は特に、このキリストの第二の到来、終わりの時に再び来られるイエス様を待ち望むという点に焦点を当てながら、このアドベントの恵みを味わいたいと思います。

今日の33節のところには、「人の子が戸口まで近づいていると悟りなさい」と言われています。これは、「すぐやって来られる」ということではなくて、「いつでもやって来られるような状態にある」ということです。しかしながらイエス様がこのことを語られてから、既に二千年以上が経過しました。ですから、ついつい私たちは暢気に構えてしまうのです。しかし、よくよく考えてみると、この人生を打ち切り、突然、イエス様の前に立つというのは、何も世の終わりだけのことではありません。私たちは死ぬ時に、皆、イエス様の前に立たなければならないのです。つまり、世の終わりの備えというのは、死の備えでもある、ということです。

 では、世の終わりの準備をする、死の備えをするというのは、具体的にはどういう生き方を言うのでしょうか。いつ世の終わりが来るか、目を皿のようにして、いつも緊張して待つということでしょうか。決してそうではありません。そうやって浮き足立つのではなくて、むしろ普段と変わらない極々、普通の信仰生活を送ればよいのです。それは一言で言うならば、御言葉に聞き、祈る生活を大切にする、ということでしょう。

 今日の35節のところには、このように言われていました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 終わりの日に備える秘訣は、何もびっくりするような凄いことではありません。滅びることのない、変わることのない御言葉にただひたすら聞くということ、ただそれだけのことなのです。

 昨年から今年にかけて、多くの兄弟姉妹方が天に召されました。その葬儀を執り行わせていただく中で、繰り返し、思わされたことも、この変わることのない御言葉にただひたすら聞くことの大切さでした。使徒ペトロも、彼の手紙の中で、このように語っています。『草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」ペトロの手紙一1章25節の御言葉です。この世界は、草が枯れ、花が散るように崩れ去っていきます。あるいは人間も同じように崩れ去っていくのです。しかし、その中で、この主の言葉だけは永遠に変わることがない、それはあなた方が聞いているこの福音の言葉なのだ、とペトロは教えたのでした。

 では、ここで言う「福音」とは何を指しているのでしょうか。「福音」、即ち「良き知らせ」とは、イエス様が私たちの罪を全部背負って十字架の上で死んで下さったこと、つまり私たちに対する神様の怒りや呪いはもう一欠片も残っていない、神様と私たちとの関係は平和なのだ、ということです。これが福音の中心です。この福音さえ、しっかりと心に刻んでいれば、どんなことが起ころうと大丈夫。安心なのです。

 老齢のゆえに、あるいは様々な病を抱えながら、入退院を繰り返し、やがて天に召されていった兄弟姉妹方の最後は、皆、とても平安でした。こんな病をかかえ、こんなに苦しむというのは、神様から見捨てられてしまったのではないか、と彼らは思わなかったのです。彼らは、御言葉をかたく信じ、そこに希望を見出していました。周りの状況がどんなに変化しようと、主の御言葉だけは永遠に変わることがない、と信じていたのです。つまり彼らは、いついかなる時にも神様に愛されていることを信じ抜いていたのでした。人は愛されていることさえ信じることができれば、苦難に耐えていくことができます。神様に愛されていることさえはっきりしていれば、どんな苦難の中にあっても、平安が与えられ、耐え忍ぶことができるのです。

 私たちの人生は、必ずしも私たちの計画通りに進むとは限りません。時には「どうしてですか?!」と問いたくなるようなことも起こります。けれども、そのような時にも確かなことが一つだけあるのです。それは何でしょうか。それは、御子を十字架に犠牲にしてまでも、神様は私たちのことを愛して愛して止まない、ということです。そんな神様が、私たちのことを、みすみす滅びるままにしておかれるはずがあるでしょうか。分からないこと、首をかしげることは沢山あります。けれども、この一つのことさえ分かっていれば、もうそれで十分です。この単純な事柄が、一番の死の備え、終わりの日の備えとなるのです。

 必ず世の終わりは来ます。しかしそれは、諸宗教がやっきになって唱えているような恐ろしい混乱の時、絶望的な滅びの時ではありません。イエス様が再び来られる時です。私たちがイエス様の素晴らしさを、この礼拝の中で味わっているならば、もう世の終わりの恐ろしいイメージなど吹っ飛んでしまうと思います。世の終わりは、天と地が崩れ去る中にあって、ただお一人、人の子イエス様のみが私の唯一の拠り所であることが明らかになる時です。そして、私たちの罪を全部背負って十字架の上で死んで下さったお方が、神様の栄光に包まれながら、誰の目にも明らかな仕方で、はっきりと現れて下さる時です。その時に、死も悲しみも涙もない神の国が完成します。この神の国の完成は、この世界とは全く別のパラダイスが、天上に出来るということではありません。そうではなくて、この世界の歩みの延長線上に神の国の完成があるのです、ですから宗教改革者ルターは、「たとえ明日、この世界が滅びるということを知っていても、私は、今日、なおリンゴの若木を植えるだろう」と言いました。これがクリスチャンの本来あるべき姿なのです。私たちも、この世界がやがて崩れ去ることを認めながら、しかし決して諦めるのではなくて、崩れ去ることのない神様に望みを置きつつ、神様が与えて下さったそれぞれの環境の中で、神の国の完成のために自分にできる精一杯の仕方で仕えていきたいと思います。

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