神にできないことはない
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- 吉田謙 牧師
28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。・・・ 34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・・。」マリア言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
ルカによる福音書 1章26節-38節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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ある日マリアは、天使から驚くべき知らせを告げ知らされました。「これまでずっと待ち望んでいた救い主が、あなたの胎から産まれる!」と。マリアもユダヤ人でしたから、救い主の到来を心から待ち望んでいたでしょう。ところが、その実現のために、他でもないこの自分が用いられる、ということになると、また話は別なのです。マリアにとって、このことは全く予想もしていないことでした。もしマリアが、誰から見ても、救い主の母親に相応しいと認められるような人物であったならば、たとえ突然の知らせであったとしても、ある納得はできたのかもしれません。けれども、この時のマリアには、そういう資質は全くありませんでした。私たちは、マリアと聞くと、世間のことは何もかも知り尽くした、信仰深い大人の女性を想像するのだと思います。けれども、実際はそうではなかったのです。マリアは、小さな田舎町ナザレに住む一人の平凡な女性にしか過ぎませんでした。しかも、このナザレという町は、ユダヤの一番北の端の国境沿いに位置するガリラヤ地方に属していました。ユダヤ人たちは、この地域を「異邦人のガリラヤ」と呼んで忌み嫌っていたのです。マリアはそういう見捨てられた町の住民でした。また聖書学者たちの見解によると、この時のマリアの年齢は十三歳か十四歳ぐらいではなかったかと言われています。今で言えば、まだ中学生です。ですから西洋の画家たちが描いたマリア像とは違って、実際のマリアはまだ幼さを残した少女だったのです。そんなマリアから救い主が生まれる。誰がそんなことを予想したでしょうか。これは全く想定外のことでした。
そこで天使はこう告げたのです。37節。「神にできないことは何一つない!」これはつまり神様は全能であるということでしょう。しかし原文を見ると、この御言葉は「神からのどんな言葉も不可能ではない」となっています。つまり、ここで天使は、ただ漠然と「神様は全能である」と告げたのではなくて、「神様が語った言葉は必ず実現する」と告げたのです。そして、マリアがこの時、受け止めたのも、このことでした。マリアは、この天使の言葉を受けて、38節のところで、このように告白しています。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように!」
つまり、マリアがここで告白したのは、「神様は何でもできる」という一般的な真理ではなくて、「神様が語られたお言葉は必ず実現する。それゆえに私に対して語られたお言葉も、私にはまだよく理解できず、そこにはまだ色んな障害があって、完全に不安が払拭できたわけではないけれど、しかし一端神様が語られたからには、全ての壁を乗り越えて、必ずその通りになるに違いない!」「私はそれを信じます!」「私はそれに従います!」この言葉は、こういうマリアの決意表明だったのです。
勿論、マリアは、この時、全てのことが理解できたわけでも、納得できたわけでもありません。どう考えてみても自分がふさわしいとは思えないのです。実際、自分がどのように用いられ、どのようなプロセスを経て、主の約束の言葉が成就するのかも、まださっぱり分からなかったのだと思います。けれども彼女は、天使ガブリエルの言葉を神様からの言葉として受けとめ、これから先、どんなことが起こるのか全く分からないままに、ただ神様を信じ、全てを神様に委ねようと決意したのでした。
私たちは往々にして「何ができるか」「何ができないか」「何を持っているか」「何を持っていないか」「強いか」「弱いか」、そんなことばかりをお互いに気にしながら生きているのではないかと思います。けれども、神様の御前で本当に重要なことは、そんなことではありません。人間にはできなくても、「神様にできないことは何一つない」のです。神様が一端、「あなたを用いる!」と言って下さるなら、人がどう思おうが、世間がどう受けとめようが、必ず神様はその御業を成し遂げて下さいます。
特に、教会の役員たち、あるいはオルガニストや教会学校の教師たちは、既にこのことを身をもって体験したのではないでしょうか。自分が立てられる時、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と、おそらく皆、つぶやいたのだと思います。自分なら、なって当然!そんな風に思った人など一人もいないでしょう。けれども、紆余曲折を経て、やがてはそれぞれに「私は主の僕です。主のはしためです」と、これを受けとめ、立てられていったのでした。私もそうです。色んな弁解をして、何とか逃げ出そうとしていました。けれども、神様が一端、こうだと決められた時には、そんな私たちの弁解など、全く通用しません。私が牧師になるためには、本当に色んな障害があり、乗り越えるべき壁が沢山ありました。ですから、最初の内、私は、「とても私には無理です!」と、きっぱりお断りしていたのです。ところが、私が言い訳に使っていた様々な障害が、短い期間に、あれよあれよという間に、一つ一つ解決していったのです。もう鳥肌が立ちました。将に「神様にできないことは何一つない」ことを、その時、私は思い知らされたのです。こうして私は、ついに神様にとらえられ、牧師として立てられていったのでした。
しかしこれは、特別な人だけに起こったことではなくて、全てのクリスチャンにも言えることではないかと思います。そもそも信仰が与えられ、クリスチャンになるということ自体、奇跡的なことでしょう。どうして罪に満ちたこの私が神の子としていただけるのか?!イエス様と結ばれ、一切の罪を赦していただき、永遠の命に与る者とされるのか?!どう考えてみても、あり得ないことなのです。けれども、たとえ私たちには到底、理解できないようなことであっても、神様が一端そう約束なさったならば、それは必ず実現するのです。