日曜朝の礼拝「真実の祈り」

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真実の祈り

日付
説教
吉田謙 牧師
6 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
マタイによる福音書 6章5節-6節

 私たちは、今日の箇所で教えられている「一人で祈る密室の祈り」の他に、「共に祈る」祈りがあることも忘れてはならないと思います。共に祈る時に私たちは、兄弟姉妹の手を取りながら、神様の御前に一緒に出ていくのです。言葉たらずで、たどたどしい祈りであってもよいのです。公の祈りにおいて、そんなことは決して重要なことではありません。公の祈りにおいて重要なことは、皆が同じ思いになることを願いながら、一緒に神様の御前に出ていくことなのです。皆が「アーメン、その通りです!」と納得できるような豊かな言葉で祈ることが出来る人は、何も遠慮する必要はありません。豊かな言葉で祈ればよいのです。しかし、そんなに豊かな言葉でなくても、単純、率直な言葉で祈ってもかまわない。ただ、人が同じ思いになることを願いながら、一緒に神様の御前に出ていくことが重要なのです。この祈りは決して偽善的ではありません。これは、とても微妙なことですが、聞いている人のことを考えて祈る行為が全て偽善的というわけではないのです。偽善的なのは、人の評価を求めて祈る祈りです。

 私は、今日の説教準備をしながら、自分自身の説教づくりの動機を思わされました。私は、決して皆様の評判を得たいがために、説教づくりをしているわけではありません。皆様に神様の語りかけをしっかりと届けたいという思いで、一所懸命、準備するのです。けれども、語った後に、人の評判が全く気にならないかと言うと、決してそうではありません。やはり気になるのです。「評判がよかった」と聞けば嬉しいし、「いま一つだった」と聞くと気落ちします。これは牧師の弱さと言えるでしょう。しかし、私の本心としては、そうはありたくないのです。本当に分かってもらえるようにと、教会員一人一人の顔を思い浮かべながら、ああでもない、こうでもないと、一所懸命、準備します。決して真心さえあればいいとは思っていません。皆さんに何とか分かってもらえるように、自分の全存在を懸けて、一所懸命、準備し、説教の言葉を練り上げるのです。けれども、そのことを偽善的にすることも出来ますし、本当に自分を捨てて語ることも出来ると思います。正直言って私は、その中間くらいのところを、いつもフラフラと揺れ動きながら、語っているのではないかと思います。

 祈りも同じではないでしょうか。人に聞かせるために祈りながら、偽善的に祈ることも出来ます。人に聞かせるために祈りながら、自分を無にして真心から祈ることも出来るのです。それは、私たちが祈った後に何を求めるか、祈った後に何に対して恥じているかということによって、はっきりと表れてきます。うまく祈れなかった時には恥ずかしさを感じ、うまく祈れた時には得意満面になる。これは私たちが常に直面する誘惑ではないかと思います。勿論、私たちは、そればかりではなくて、ちょうど私が真実8割、偽善2割というようなところでフラフラ揺れ動きながら説教しているように、偽善だけの心で祈っているような人は誰一人いないと思います。しかし、逆に真実だけの心で祈っている人もいない。そういう意味では、私たちは、いつも、この誘惑と戦っていかなければならないのです。

 それでは、祈りにおいて、私たちが人の評価を得たいという心に打ち勝つためには、いったい何が必要でしょうか。イエス様はここで、「隠れたところにおられる神様に祈るように」と命じられました。6節。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」

 これは、会堂での祈りが駄目で、密室の祈りだけがよい、ということではありません。礼拝の時に、会堂に集まって祈ることも大切です。しかし、今日の箇所でイエス様は、人の評価を得たいという思いから解放される道筋として、密室の祈りを教えて下さったのでした。やはり最初から会堂で祈るのは、誘惑が多すぎるのです。まず私たちは、隠れた、誰も見ていないところで神様だけに向かって祈り、そこで神様に呼びかける喜びと、神様の愛の語りかけを聞く喜びだけで満ち足りる経験をする必要があります。「あなた方は弱いのだから、最初から誘惑の多い会堂での祈りから出発するのではなくて、まずは一人だけの部屋に入り、神様だけによって満ち足りることを知りなさい。そうやって神様と過ごす喜びを味わったならば、やがてあなた方も誘惑に負けることなく、会堂でも祈れるようになるだろう!」このようにイエス様は、勧められたのでした。

 一人静かに祈るためには、個室がなければならないということではありません。本当に神様と一対一の時間を持ちたいと願う人は、なんとかしてそういう場所を見出すことでしょう。旧約聖書には、ヒゼキア王が病気の時に、家来が沢山いる中で壁に向かって祈ったという祈りが紹介されています(列王記下20:2)。看病する人々は周りに沢山いたのです。けれども、ヒゼキア王は神様と一対一で祈りたかったのでしょう。そこで彼は、病床で壁に向かって祈った、と言うのです。壁に向かうだけで、そこが彼の密室になり、隠れた部屋になったのでした。祈りの密室というのは、たとえ皆がいるところであっても、少し壁に向かうだけでも確保できるのです。ある方は、通勤途中の満員電車の中で祈るようにしています、と言っておられました。そこでも神様と一対一の祈りは出来るのです。大切なのは、一人になって神様に祈りたいという願いでありましょう。

 最近は、心の病で苦しむ人たちが急増し、会社の中にも、社員のカウンセリングを受け持つ部門が作られるようになりました。このカウンセリングの基礎は「受容である」とよく言われます。相手が言うことを、とにかく受け取り、聞いてあげるのです。それだけでよいのだ、と言われます。人の心は聞いてあげるだけで健やかになる、これがカウンセリングの基本なのです。そういう意味では、私たちには、本当に素晴らしいカウンセラーがおられます。私たちのことが全部分かり、私たちの罪や汚(けが)れや欠けや弱さを全部知り尽くし、私たちの一番醜い部分をも知りながら、それでも、なお私たちを愛し抜いて下さるお方です。私たちは、この一番のカウンセラーである神様に向かって、心の奥底にある一切のことを打ち明けることが出来るのです。何という幸いでしょうか。

 それぞれの密室の祈りの中で、この神様に心の奥底にある一切を打ち明けていきたいと思います。その時に、私たちも、この父なる神様の愛に包まれながら、心癒されて、少しずつ人の目を恐れる生き方から解放されていくのではないでしょうか。

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