信頼の祈り
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
マタイによる福音書 6章7節-8節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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ここでは、「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」と指摘されています。これは「長い祈りをしてはいけない」ということではありません。聖書を読むと、イエス様ご自身が徹夜で祈られたことが記されています(ルカ6:12)。イエス様は、私たちよりも遙かに長い祈りをなさいました。また聖書は「絶えず祈りなさい」とも教えています(テサロニケ一5:17)。このように聖書は、「長く祈ってはいけない」とは教えていないのです。むしろ私たちは、祈る時間が短すぎることを心配した方がよいでしょう。神様に向かって、心の奥底にある全ての喜びと悲しみと悩みと願いの一切を打ち明けるのです。神様と共に日々(ひび)を生きるためには、やはり神様と真剣に向き合う時間をできるだけ多く確保する必要があります。
あるいは、ここでは「くどくどと祈る」ことが戒められています。しかし、繰り返し祈ることも、私は大事なことではないかと思います。イエス様も、あのゲツセマネの園で、同じ言葉で繰り返し祈られました。ですから、「くどくどと祈ってはならない」というのは、繰り返し祈ってはならない、ということではないのです。むしろ、繰り返すこともなく、一回、祈っただけでお終いというのは、真剣にそのことを願っていない証しではないかと思います。私は、毎日、家族のために祈ります。教会のために祈ります。また心配な方が何人かおられて、その方々のためにも祈ります。それは、決まり文句のような同じ言葉の繰り返しになっていることもあります。しかし、それはそのことを真剣に願っているからこそ、そういう繰り返しの祈りになるのです。私たちは、そういう繰り返しの祈りや長い祈りのことを心配する必要はありません。むしろ短い祈りやあっさりした祈りの方を心配した方がよいと思います。あまりにあっさりとした祈りは、期待していないしるしかもしれません。また短い祈りは、神様との交わりに耐え切れないような魂の姿を現しているのかもしれない。
要するにイエス様がここで問題にされたのは、祈りが長いか短いか、同じ言葉で繰り返し祈るか祈らないかという、表面的なことではなくて、むしろその祈りに込められた神様に対する信頼の問題でした。神様に対する信頼のない祈りを、イエス様は禁じられたのです。言葉数が多ければ聞き入れられるというのは、裏返して言うならば、言葉数が少なければ神様は聞いてくださらない、という神様に対する不信頼の姿を表していたのです。
テレビの時代劇などで、「病気や災いから守られるように」と厄払いのために、もの凄い形相で、色んな呪文を唱えながら、必死で祈っている姿を、時々見かけることがあります。聖書の中にも、旧約の預言者エリヤが偶像の神バアルの預言者たちと対決した時に、同じようにバアルの神の預言者たちが、「バアルよ答えてください!」と必死で叫び、踊り、体を傷つけ、血を流しながら、バアルの神の気を引こうとした、という記事が伝えられています(列王記下17章)。このようにイエス様は、必死になって神様を説得しなければ神様は動いて下さらないという思いで祈る祈りを批判なさったのでした。
私たちの神様は、そうやって祈り倒さなければ振り向いてくれないような冷たいお方ではありません。続けてイエス様は、そのことを教えられました。8節。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」
この全てのことを知っておられる神様に向かって、繰り返し祈ってもよいのです。長々と祈ってもかまわない。ただ、神様は説得しなければ聞いてくださらないお方ではなくて、もう願う前から、私たちに必要なことを全部ご存じなのだ、と言うのです。そして、そういうお方に向かって、あなた方は信頼をもって祈るように、とイエス様は教えられたのでした。神様は、私たちが祈ったから、私たちのことをいじらしく思い、願いを聞いて下さるのではありません。神様は、私たちが祈る前から、私たちの全ての必要をご存じなのです。
私たちは、御子が十字架につかなければならないという必要について誰も気づきませんでした。誰一人、「御子を十字架につけて下さい!」とは祈らなかったのです。私たちの願いからするならば、むしろ家内安全、商売繁盛の方がよかったのかもしれません。けれども、神様だけがご存じでした。私たちに本当に必要なのは、家内安全、商売繁盛なのではなくて、御子が十字架にかかることなのだ、ということを。「あなたに必要なのは神様からの赦しであり、愛である!」このことを神様だけがご存じでした。このお方が他の必要についても、一切ご存じなのだ、と言うのです。神様は、願う前から私たちの気持ちが何でも分かるから、願い通りに何でも叶えて下さるわけではありません。そうではなくて、神様は私たちにとって、今、何が最も必要なのかをご存じであり、その時々に最も相応しい物を与えて下さるのです。
私たちは、人生の帰路に立って祈る時に、本当にこれが与えられなければ私の人生は真っ暗闇だ、と思うことがあります。しかし、そういう私たちの願いが必ずしも正しいとは限りません。神様は私たちが願う前から、私たちの本当の必要を知っておられます。
私たちは、苦しみの中で、必死に祈り、呻くのですが、本当に必要なことは私たちには分かっていません。もしかすると、私たちが願っていることは、私たちの勝手な思い込みにしか過ぎないのかもしれない。けれども神様だけは、私たちに今、最も必要なことを全部ご存じなのです。そして、その時々に最も相応しいものを惜しまずに私たちに分け与えて下さいます。
もし、私の祈った通りのことが実現していたならば、今頃、私は全く違う人生を歩んでいたことでしょう。神様のご計画がなりましたから、今、私はここに立つことが出来ています。そして、それは色んな時に苦しかったり、悲しかったり、辛かったりしましたが、しかし今、振り返ってみると、これは将に神様の恵みによる導きだったなぁと思わされています。そういう意味では、神様は私の本当の必要をちゃんとご存じであり、最善の時に、最善の仕方で、最善のことをして下さったのです。神様は私たちの必要を全てご存じです。何よりも、私たちの救いのために、御子を十字架に送って下さったお方です。この神様の大きな大きな愛を信じ、どんな時にも、私たちを見捨てることなく、最善のことをして下さるという安心感の中で、心の奥底にある様々な悲しみや悩みや願いの一切を、大胆に打ち明けていきたいと思います。