日曜朝の礼拝「父への祈り」

日本キリスト改革派 吹田市千里の教会ホームページへ戻る

問い合わせ

父への祈り

日付
説教
吉田謙 牧師
9 だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、」
マタイによる福音書 6章9節

 今日、私たちが学びたいのは、「天におられるわたしたちの父よ」という「主の祈り」の最初の呼びかけの言葉です。日本語では、「天におられるわたしたちの父よ」という具合に、「父よ」という言葉が一番最後になっていますが、原文を順番通りに訳すと「父よ」「わたしたちの」「天におられる」となります。つまり、主の祈りは、開口一番、神様に向かって「父よ」と呼びかけるのです。この「父よ」という言葉は、もともとは「アッバ」という言葉であったと言われます。イエス様も、また教会の最初のクリスチャンたちも、「アッバ」と神様に呼びかけ、祈った、ということが聖書からも分ります。この「アッバ」という言葉は、幼子が父親を呼ぶ時の「アブ」「アブ」という赤ちゃん言葉と言われます。しかし、最近の研究によると、これは必ずしも幼子に限らず、大人も「アッバ」と呼ぶことがあった、ということが分かってきました。幼い時から呼び慣れてきたその呼び方で、父親のことをを「アッバ」と呼ぶのです。これは、幼子の時に父親に抱いていたような信頼と愛を込めて呼びかける言葉です。そういう信頼と愛を込めながら、「アッバ」と神様に呼びかけてよい、とイエス様は弟子たちに教えられたのでした。これは本当に驚くべきことではないかと思います。

 本来、私たちと神様との関係は、創造主と被造物の関係です。造った者と造られた者との関係であります。決して父と子の関係ではありません。神様のことを父と呼ぶことが出来るのは、本来、独り子である神、イエス・キリストただお一人だけです。もし私たちが神様のことを父と呼ぶことが出来るとするならば、それは私たちがこのイエス・キリストとしっかりと結びつけられた時だけでありましょう。そもそも人間は、罪と汚(けが)れに満ちていて、到底、きよい神様の前に出ることなど出来ない存在です。けれども、御子イエス・キリストが、私たちの罪を全部背負って、十字架の上で死んで下さいました。「あなたの罪は赦された!あなたの罪と弱さと汚(けが)れは、私が全部十字架の上で担い、贖ったから、もうあなたと神様との関係はこじれていない。平和である。だから、あなたは安心して、神様に向かって、『父よ』と親しく呼びかけてよい!」このようにイエス様は、自らの命を懸けて、この祈りを教えて下さったのです。これはよくよく考えてみると、奇跡的なことではないかと思います。造られた者に過ぎない私たちが、しかも、これまでさんざん神様に敵対し、神様に背を向け続けてきた私たちが、御子イエス・キリストのゆえに、神様のことを親しく「父よ」と呼びかけることが出来る。これは将に「アメイジンググレイス!」「驚くべき恵み」でありましょう。

 私たちが神様の子供であることを表す有名な物語に、「放蕩息子」の譬え話(ルカ15:11-32))があります。父親の財産を先に分けてもらい、遠いところに旅立った息子が、放蕩に身を持ち崩し、全財産を使い果たしてしまうのです。やがて人生の厳しさを身に染みた息子が父親のもとへと帰って行きます。「もう子供と呼ばれる資格はない。でも雇い人の一人として側に置いてもらおう!」そういう悲しい決心をして、息子は父親のもとへと帰って行くのです。ところが父親は、このボロボロになった息子を、遠くの方から見つけて走り寄り、そのままで受け入れ、抱(だ)きかかえてくれたのです。神様はこういう父親なのだ、とイエス様は教えて下さったのでした。

 この父親は、弟息子が立派に僕(しもべ)として仕え抜いている姿を見て、「よし、これならいいだろう」と判断し、弟息子を再び息子として迎え入れたわけではありません。そうではなくて、ただボロボロになって帰って来ただけで、大喜びで迎え入れてくれたのです。しかも、心をすっかり入れ替え、別人になって帰ってきたから、迎え入れたわけでもありません。父の家では雇い人でさえもありあまるほどのパンに与っているのだから、自分も父のもとに帰ると、少なくともパンだけにはありつけるのではないか、おそらくその程度の中途半端な思いを抱きながら彼は帰って来たのです。けれども、この父親は、そういう息子を、中途半端なままで喜んで迎え入れました。これが神様の真実のお姿です。立派な業績を積み上げなければ認めてもらえないとか、才能豊かで、清く正しく生きている人間だけが受け止めていただける、というのでは決してありません。この放蕩息子のように「父のもとへ帰ろう」「神様のもとへ帰ろう」と決心するだけでいい。それだけで、神様は喜んで私たちを受け止めて下さるのです。この「父よ」という「主の祈り」の呼びかけは、こういう驚くべき恵み、大いなる福音を内に秘めた呼びかけなのでした。

 この「父よ」という言葉に、「わたしたちの」という言葉が続いています。この「わたしたちの」という言葉も、私たちが注意しなければならない大切な言葉ではないかと思います。神様が父でいて下さる。私の存在を父として喜んでおられる。この喜びを味わった人は、今度は、兄弟姉妹のことを愛し、兄弟姉妹をその愛の輪の中に入れながら、この「主の祈り」を祈るのです。「祈りとは私と神様だけの関係であって、他の人は誰も入(はい)れない」というのでは決してありません。神様に愛されている他の兄弟姉妹のことを思いながら、神の家族の一人として、「わたしたちの父よ」と私たちは祈るのです。

 何故、私たちは、この日曜日の礼拝に出てくるのでしょうか。何故、一人、自分の部屋で神様を礼拝するだけでは足りないのでしょうか。それは、私たちが神の家族だからです。教会の中には、一人として必要でない人などいません。みんな神の家族の一員であり、掛け替えのない一人一人なのです。私たちは、神の家族として、ここに座っている一人一人の姿を思い浮かべながら、あるいは、様々な事情でここに集うことが出来ていない兄弟姉妹のことをも思い浮かべながら、「我らの父よ」と共に祈るのです。

 原文で最後にくる言葉は、「天におられる」という言葉です。人間の親は残念ながら完璧ではありません。叱らなければならない時に甘やかしてみたり、本当は抱きしめてあげなければならない時に厳しく叱ってみたりと、残念ながら、人間の親は失敗を繰り返してしまいます。しかし神様は、人間の父親を遙かに越えた完璧な「天の父」なのです。本当に私たちを打たなければならない時には正しく打ち、抱きしめなければならない時には正しく抱きしめて下さいます。人間の親のように愛情の不足や様々な欠けなど一切ありません。私たちは、こういう天の父に祈ることができるのです。何という幸いでしょうか。

 私たちは、「天におられるわたしたちの父よ」と祈り始める時に、「ああ、こういう憐れみに満ちたお方のもとに帰ってきたのだなぁ」という福音の喜びを味わい知ることができます。

礼拝に来てみませんか?

千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。

ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。