日曜朝の礼拝「御名が崇められますように」

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御名が崇められますように

日付
説教
吉田謙 牧師
9 御名が崇められますように。
マタイによる福音書 6章9節

今、私たちは、イエス様が教えてくださった「主の祈り」についての学びをしています。今日は、この「主の祈り」の最初の願い、「御名が崇められますように」という祈りについて学びたいと思います。

 この「御名」というのは、父なる神様のお名前のことです。当時、ユダヤでは名前が非常に重んじられ、名前はその人の存在そのものを表すと考えられていました。ですから「御名」というのも、ただ単なる父なる神様のお名前というのではなくて、父なる神様の存在そのものを言い表していたのです。従って、この「御名が崇められますように」という祈りも、「神様の存在そのものの素晴らしさやご栄光が現れて、神様が誉めたたえられますように」という祈りになります。

 また、この主の祈りの第一祈祷の中にある「崇める」という言葉は、もともとは「聖なるものとする」「聖別する」という意味の言葉です。ですから、「御名が崇められますように」という祈りは、直訳すると「父なる神様、あなたが聖なるものとされますように、聖別されますように」という祈りになります。父なる神様が聖なるものとされますように、聖別されますように、と祈らなければならない、これはいったい何を意味しているのでしょうか。それは、この父なる神様の御名が現実には汚されている、ということでしょう。では、この神様の御名を汚すのはいったい誰でしょうか。勿論、敵対心をもつ人々が汚す、世間の人々が汚すということもあるでしょう。けれども、私たちがまず心にとめなければならないことは、それは他でもない私たち自身なのだ、ということです。

 パウロは、旧約聖書の御言葉を引用しながら、「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚(けが)されている」と神の民に対して厳しい言葉を語りました(ローマ2:14)。「あなたたちのせいで、神の名は汚(けが)されている。」これは直接にはユダヤ人に向かって語りかけられた言葉です。けれども、これは決して私たちと無関係の言葉ではありません。

 この「御名が崇められますように」という主の祈りの第一祈祷は、当然のことながら神様への願いごとです。決して、「あなたの御名を崇めます!」、「あなたが聖なるお方であることを、私自身の振るまいを通して証しします!」という決意表明ではありません。これはとても大切なことではないかと思います。前回もお話ししましたように、この「主の祈り」は、それ自体が福音であり、良い知らせなのだ、とよく言われます。本当に嬉しいことにイエス様は、この神様の栄光を現すことについても、祈ってよい、と許して下さいました。力が乏しく、なかなか思うように神様の栄光を現すことが出来ない私たちです。伝道することにおいても、真(まこと)の礼拝を捧げることにおいても、あるいは善き行いによって神様の栄光を表すことにおいても、力のない私たちです。そういう私たちに対して、神様は「何が何でもやってみよ!」と命じられるのではなくて、「このことについても、あなた方は祈るように」と励まして下さったのでした。

 前回、私たちは父なる神様の愛を学びました。父なる神様は、御子を十字架につけるほどに、私たちを愛して下さいます。放蕩息子が帰ってきただけで、もう遠くから息子だと気づいて走り寄って下さる。どんなに罪深くても、どんなに卑(いや)しくても、どんなに汚(けが)れていても、あるがままで受け入れ、愛して下さるのです。これが父なる神様の愛でした。けれども、父なる神様は「私がこれだけ愛したのだから、今度はあなたの出番だ!今度はあなたが私の栄光を表しなさい!」とは言われません。そうではなくて、今度も神様の出番なのです。今度も神様が私たちを通して栄光を現して下さいます。「私に頼ってよい」「私が栄光を現す!」と神様は宣言して下さるのです。

 そういうわけで私たちは、この祈りを、自分自身が神様の栄光を現す点で力がないことを覚えながら、しかも「栄光を現したい!」と切に願いながら祈るのです。決意表明として、神様の栄光をあらわしますと宣言するのではなくて、父なる神様の圧倒的な愛に感動し、私の切実な願いとして、神様の栄光をあらわしたいのです。しかも、そう出来ない自分のことを嘆き悲しみながら、神様に頼る他はないので、「御名が崇められますように」と祈るのです。

 パウロは、このように教えました。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」コリントの信徒への手紙一10章31節の御言葉です。

 私たちは、自分の食べたいものを食べ、見たいものを見、行きたいところに行って一生涯を過ごしたいと思っています。この世界が自分を中心に回っていて欲しいのです。しかしパウロは、そのように自分を中心にして生きるのではなくて、何をするにしても神様の栄光を現すためにしなさい、と教えました。何故でしょうか。

 たとえ何不自由のない生活が送れたとしても、それだけで、その人の人生がバラ色になるわけではありません。何故ならば、私たち人間は、もともと神様と共に生きる存在として、神様を礼拝し、神様の栄光を現す存在として造られたからです。ですから、たとえ自分の思い通りに生きることが出来たとしても、この神様の目的から逸脱した人の人生が空しくなるのは当然なのです。

 私たちは、空しい人生を生きないためにも、この神様の目的に沿って生きなければなりません。神様の栄光を現して生きていかなければならない。けれども、残念ながら私たちには、その力がありません。神様の栄光を現したいのですが、その力がないのです。しかし、嬉しいことに、神様は、このことについても、「祈ってよい」と言って下さいました。これは本当に感謝なことですね。これこそ将に福音、良き知らせでありましょう。この「主の祈り」の福音に励まされながら、神様の栄光を現すことについても、決して諦めることなく、神様に信頼しつつ、真剣に祈り求めていきたいと思います。

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