10 御国が来ますように。マタイによる福音書 6章10節 今、私たちは、イエス様が教えて下さった「主の祈り」を学び続けています。今日は、この「主の祈り」の第二祈祷、「御国が来ますように」という祈りについて学びたいと思います。この「御国」というのは「神の国」ということです。また、この「神の国」という言葉は、本来「神様の支配」ということを言い表している言葉です。ですから「神の国が来た」とイエス様が言われる時に、その意味は神様が王様としてこの世界を支配して下さる時が来た、という意味になります。 イエス様は、「神の国は近づいた!」「神の支配は、もう既に始まっているのだ!」と言われました。けれども、私たちの日々の生活を振り返る時に、本当に神の国は来ているのだろうか、と思わされることがあります。新聞やテレビでニュースを見る時に、毎日、毎日、目を覆いたくなるような悲惨な出来事が報道されています。また新聞やテレビの報道だけではなくて、自分の家族や教会の兄弟姉妹のことを考えてみてもそうです。また自分自身のことを考えてみてもそうなのです。神様が生きておられるのなら、何故、自分の家族が、今こんな目に遭わなければならないのか?!何故、教会の兄弟姉妹がこんな辛い目に遭わなければならないのか?!何故、自分がこんな悲しい出来事に出会わなければならないのか?!神の国はまだ来ていないのではないか?!私たちは、しばしばそう考えるのです。けれども、イエス・キリストは、将にそのような暗闇を照らす光として、この世においでになりました。そのような暗闇の中でこそ「御国が来ますように」と祈ることを、私たちに求めておられます。そしてイエス様は、この祈りが成就する道をも、その地上における全生涯をもって切り開いて下さいました。イエス・キリストは、その全生涯において、私たちの重荷を全部背負い、その最後には十字架の深みにまで徹底的に沈み込まれて、この世の罪と悲惨を全部その身に引き受けて下さったのです。それは、こんなところに神などおられるものかと思わざるを得ないところで、なお私たちが希望を捨てず、十字架のイエス・キリストに頼って生きる道を切り開くためでした。「御国が来ますように。私とこの世界の罪を贖い、この悲惨から立ち上がらせて下さい。神様、あなたのご支配がこの暗闇の中にあっても明らかになりますように!」私たちは、暗闇と悲惨の中にあっても、こう祈ることが出来るのです。これは本当に幸いなことではないでしょうか。 様々な災いが起こる時に、「先祖の祟りだ!」と脅されて、いかがわしい宗教に振り回される人がいます。様々な苦難を味わう時に、自分には罰(ばち)が当たったとおびえる人がいます。苦しみの中で、自分の犯した過ちを反省することは何も悪いことではありません。いやむしろそれは尊いことでしょう。けれども、クリスチャンはその後(あと)に、大きな希望の中に招かれるのです。「あなたの罪は赦されている。あなたの身に起こっている苦難は、決して神が怒(いか)っているしるしではない。呪っているしるしではない。そうではなくて、神は御子を犠牲にしてまでも、あなたとの間に平和を打ち立てて下さった。神はそれほどまでにあなたのことを愛して愛して止まないのだ!」この「神様との平和」の中に招かれるのです。これは神様ご自身が打ち立てて下さった平和ですから、どんなことがあっても変わることがありません。永遠に続くのです。生きる時も、死ぬ時も、また死ぬ瞬間も、神様は敵となって私の命を奪うのではなくて、私の味方となって私を天国へと招き入れて下さいます。 この神様の支配の中を生き始める時に、私たちはたとえ色んな危険がまわりには一杯あったとしても、ジタバタせずに、あるいは色んなものに振り回されずに、この神様を信頼し、平安に歩むことが出来るのだと思います。 ある人が天国の夢を見ました。扉を開けると、そこは天国でした。見たこともないような美しい花が咲き乱れ、ビロードのような、柔らかそうな草が敷き詰められ、春のそよ風が吹いていました。天使が軽やかに飛び回っています。「なんて素晴らしいところに来たのだろう!」と思って一歩足を踏み出すと、春のそよ風と思っていたのは、冬のどんな風よりも厳しく冷たい風でした。ビロードのように柔らかいと思った草は、鋭い剣(つるぎ)をもって足を貫くのです。しかし、そこを天使たちはいとも軽やかに飛び回っていました。 これは、ナルニア国物語の著者で有名な、あのC.S.ルイスというイギリスの作家が描いた「天国の夢」です。神の国、天国の特徴は、何の問題もないということではありません。神の国の特徴は、イエス様が全てを御手の内に治めておられる。どこにいてもイエス様が共にいて下さる、ということです。イエス様が共にいて下さる時に、イエス様が全てを御手の内に治めておられる時に、災いが災いでなくなる。厳しく冷たい風が春のそよ風に変わる。鋭い剣(つるぎ)がビロードのような、柔らかな草花に変わる、と言うのです。これは、今、私たちが生きている現実の世界を明確に言い当てているのではないか、と思います。もう御子イエス・キリストはこの世にお出でになりました。神の国は確かにここに来ているのです。イエス・キリストは、ボンヤリしている私たちの心の扉を、今も確かに叩き続けておられます。「私はここにいる。あなたは決して見捨てられてはいない!」と。このイエス・キリストに気づく時に、厳しく冷たいと思っていた風が春のそよ風に変わり、鋭い剣(つるぎ)と思っていたものが柔らかな草花に変わるのです。 実際に、私たちの教会の中には、とても厳しい状況の中に置かれている方々が何人もいらっしゃいます。しかし、彼ら、彼女たちは教会に来るようになってから、何も厳しい状況が変わったわけではないのに、「不思議な平安をいただいています」と口々に語っておられます。何故でしょうか。それは、何が幸せかという常識が変えられてしまったからです。この病気が癒されなければ、この問題が解決しなければ、私は幸せにはなれない。そういう常識が打ち砕かれたのだと思います。病気や苦悩がなくなることが、根本的なことではありません。私を造って下さった造り主なる神様に出会うこと。私の罪を全部背負って下さった救い主イエス・キリストに出会うこと。このことを抜きにしては、本当の幸せなどありません。そのことが分かったのです。即ち、神の国、神様のご支配が見えてきたのです。こんな苦しいところに神の国などあるものかというのではなくて、神様は、この私の苦しみの中にも生きて働いておられる、という信仰の眼差しが与えられたのだと思います。 2025年度 説教要約 一覧 新約聖書 『マタイによる福音書』
礼拝に来てみませんか? 千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。 ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
今、私たちは、イエス様が教えて下さった「主の祈り」を学び続けています。今日は、この「主の祈り」の第二祈祷、「御国が来ますように」という祈りについて学びたいと思います。この「御国」というのは「神の国」ということです。また、この「神の国」という言葉は、本来「神様の支配」ということを言い表している言葉です。ですから「神の国が来た」とイエス様が言われる時に、その意味は神様が王様としてこの世界を支配して下さる時が来た、という意味になります。
イエス様は、「神の国は近づいた!」「神の支配は、もう既に始まっているのだ!」と言われました。けれども、私たちの日々の生活を振り返る時に、本当に神の国は来ているのだろうか、と思わされることがあります。新聞やテレビでニュースを見る時に、毎日、毎日、目を覆いたくなるような悲惨な出来事が報道されています。また新聞やテレビの報道だけではなくて、自分の家族や教会の兄弟姉妹のことを考えてみてもそうです。また自分自身のことを考えてみてもそうなのです。神様が生きておられるのなら、何故、自分の家族が、今こんな目に遭わなければならないのか?!何故、教会の兄弟姉妹がこんな辛い目に遭わなければならないのか?!何故、自分がこんな悲しい出来事に出会わなければならないのか?!神の国はまだ来ていないのではないか?!私たちは、しばしばそう考えるのです。けれども、イエス・キリストは、将にそのような暗闇を照らす光として、この世においでになりました。そのような暗闇の中でこそ「御国が来ますように」と祈ることを、私たちに求めておられます。そしてイエス様は、この祈りが成就する道をも、その地上における全生涯をもって切り開いて下さいました。イエス・キリストは、その全生涯において、私たちの重荷を全部背負い、その最後には十字架の深みにまで徹底的に沈み込まれて、この世の罪と悲惨を全部その身に引き受けて下さったのです。それは、こんなところに神などおられるものかと思わざるを得ないところで、なお私たちが希望を捨てず、十字架のイエス・キリストに頼って生きる道を切り開くためでした。「御国が来ますように。私とこの世界の罪を贖い、この悲惨から立ち上がらせて下さい。神様、あなたのご支配がこの暗闇の中にあっても明らかになりますように!」私たちは、暗闇と悲惨の中にあっても、こう祈ることが出来るのです。これは本当に幸いなことではないでしょうか。
様々な災いが起こる時に、「先祖の祟りだ!」と脅されて、いかがわしい宗教に振り回される人がいます。様々な苦難を味わう時に、自分には罰(ばち)が当たったとおびえる人がいます。苦しみの中で、自分の犯した過ちを反省することは何も悪いことではありません。いやむしろそれは尊いことでしょう。けれども、クリスチャンはその後(あと)に、大きな希望の中に招かれるのです。「あなたの罪は赦されている。あなたの身に起こっている苦難は、決して神が怒(いか)っているしるしではない。呪っているしるしではない。そうではなくて、神は御子を犠牲にしてまでも、あなたとの間に平和を打ち立てて下さった。神はそれほどまでにあなたのことを愛して愛して止まないのだ!」この「神様との平和」の中に招かれるのです。これは神様ご自身が打ち立てて下さった平和ですから、どんなことがあっても変わることがありません。永遠に続くのです。生きる時も、死ぬ時も、また死ぬ瞬間も、神様は敵となって私の命を奪うのではなくて、私の味方となって私を天国へと招き入れて下さいます。
この神様の支配の中を生き始める時に、私たちはたとえ色んな危険がまわりには一杯あったとしても、ジタバタせずに、あるいは色んなものに振り回されずに、この神様を信頼し、平安に歩むことが出来るのだと思います。
ある人が天国の夢を見ました。扉を開けると、そこは天国でした。見たこともないような美しい花が咲き乱れ、ビロードのような、柔らかそうな草が敷き詰められ、春のそよ風が吹いていました。天使が軽やかに飛び回っています。「なんて素晴らしいところに来たのだろう!」と思って一歩足を踏み出すと、春のそよ風と思っていたのは、冬のどんな風よりも厳しく冷たい風でした。ビロードのように柔らかいと思った草は、鋭い剣(つるぎ)をもって足を貫くのです。しかし、そこを天使たちはいとも軽やかに飛び回っていました。
これは、ナルニア国物語の著者で有名な、あのC.S.ルイスというイギリスの作家が描いた「天国の夢」です。神の国、天国の特徴は、何の問題もないということではありません。神の国の特徴は、イエス様が全てを御手の内に治めておられる。どこにいてもイエス様が共にいて下さる、ということです。イエス様が共にいて下さる時に、イエス様が全てを御手の内に治めておられる時に、災いが災いでなくなる。厳しく冷たい風が春のそよ風に変わる。鋭い剣(つるぎ)がビロードのような、柔らかな草花に変わる、と言うのです。これは、今、私たちが生きている現実の世界を明確に言い当てているのではないか、と思います。もう御子イエス・キリストはこの世にお出でになりました。神の国は確かにここに来ているのです。イエス・キリストは、ボンヤリしている私たちの心の扉を、今も確かに叩き続けておられます。「私はここにいる。あなたは決して見捨てられてはいない!」と。このイエス・キリストに気づく時に、厳しく冷たいと思っていた風が春のそよ風に変わり、鋭い剣(つるぎ)と思っていたものが柔らかな草花に変わるのです。
実際に、私たちの教会の中には、とても厳しい状況の中に置かれている方々が何人もいらっしゃいます。しかし、彼ら、彼女たちは教会に来るようになってから、何も厳しい状況が変わったわけではないのに、「不思議な平安をいただいています」と口々に語っておられます。何故でしょうか。それは、何が幸せかという常識が変えられてしまったからです。この病気が癒されなければ、この問題が解決しなければ、私は幸せにはなれない。そういう常識が打ち砕かれたのだと思います。病気や苦悩がなくなることが、根本的なことではありません。私を造って下さった造り主なる神様に出会うこと。私の罪を全部背負って下さった救い主イエス・キリストに出会うこと。このことを抜きにしては、本当の幸せなどありません。そのことが分かったのです。即ち、神の国、神様のご支配が見えてきたのです。こんな苦しいところに神の国などあるものかというのではなくて、神様は、この私の苦しみの中にも生きて働いておられる、という信仰の眼差しが与えられたのだと思います。