神の子となる資格
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
12 しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
ヨハネによる福音書 1章6節-13節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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私たちは、本来、神様の子供ではありません。私たちは神様に造られた存在であり、私たちと神様との関係は、本来、造った者と造られた者との関係、創造者と被造物の関係であります。決して親子の関係ではありません。そういう私たちが、神様の実の子供となるというのは、本当に奇跡的なことではないかと思います。
この神の子となるというのは、主に二つのことを意味しています。まず一つ目は、何と言っても、私たちは神様の素晴らしい愛で愛される者となる、ということです。神様は、私たちのことを、実の子供として、ご自分が生んだ子供として愛して下さる、と言うのです。
親子の関係というのは、損得勘定を全く抜きにした愛の関係ではないかと思います。能力とか、働きとか、そういうものとは全く関係なく、存在そのものが大切にされる関係です。このような神様との愛の関係を表す有名な物語に、「放蕩息子」の譬え話があります。父親の財産を先に分けてもらい、遠いところに旅立った息子が、放蕩に身を持ち崩して、全財産を使い果たしてしまうのです。やがて人生の厳しさを身に染みた息子が父親のもとへと帰って行きます。「もう子供と呼ばれる資格はない。でも雇い人の一人として側に置いてもらおう!」そういう悲しい決心をして、息子は父親のもとへと帰って行くのです。ところが父親は、このボロボロになった息子を、遠くの方から見つけて走り寄り、そのままで受け入れ、抱きかかえてくれたのです。神様はこういう父親なのだ、とイエス様は教えて下さいました。
私たちは、日毎の生活の中で、なんとか自分の価値を見出そうと一生懸命です。もっと立派な生活、もっと魅力ある性格、もっと沢山の能力を得たいと、必死になって頑張っているのです。しかし、そうやって自分の価値を増し加えようと躍起になって生きていく内に、いつの間にか生活の軸がぶれてしまう。そして、ある時、ハッと我に返るのです。「今まで自分はいったい何をしてきたのだろうか?!」と。その時に私たちは、あの放蕩息子のように、「父よ、私にはあなたの子供と呼ばれる資格はありません」と言わなくてもよいのです。生活が立派でなくても、まだまだ悔い改めが不十分で色んな歪なものがあったとしても、ただ帰って行くだけでよいのです。父なる神様は、私という存在の全部を喜んで下さいます。「どんなに弱くても、どんなに卑しくても、どんなに汚れていても、あなたは世界中でたった一人しかいない、決して失われてはならない、掛け替えのない大切な大切な存在なのだ。高価で尊い。私はあなたを愛している!」こう言って下さるのです。神の子となるというのは、この変わることのない神様の大きな大きな愛で私たちが愛される、ということです。本当に感謝なことですね。
神の子となるということの二つ目の意味は、生まれ変わるということです。イエス・キリストを信じた時に、私たちは神の子として新しく生まれ変わります。聖書の教えによると、私たちはどんなに自分の力で頑張ってみても、神様の御心にかなう人間になることは出来ません。私たちは、自分の力で神様の子供らしくなることは出来ないのです。ですから、生まれ変わる他はない。イエス・キリストを信じる時に、私たちは全く新しい人間に生まれ変わります。神様を愛し、人を愛することが出来る人間になるのです。勿論、イエス・キリストを信じた瞬間に、私たちがすっかり新しい別の人格になるわけではありません。私たちは、生まれるのです。新しい完璧な人間にパッと変身するのではなくて、生まれるのであります。生まれると言っても、肉体が赤ちゃんのようになるわけではありません。魂において、私たちは赤ちゃんのようにして生まれるのです。
生まれたての赤ちゃんは、確かに人間の特徴を持っています。けれども、それを十分に発揮することは出来ません。人間は二足歩行する存在です。けれども、赤ちゃんは二足歩行できません。人間は言葉を話します。しかし赤ちゃんは、言葉を話すことが出来ません。人間は深くものを考えます。しかし赤ちゃんは、まだ深くものを考えません。しかし、たとえ人間の特徴をまだ何一つ表せない赤ちゃんであっても、確かに人間なのです。やがて成長するならば、必ず二本足で歩き、必ず言葉を話し、必ず深くものを考えるようになる。「生まれる」というのは、そういうことなのです。とてつもなく大きな事件ですけれども、しかしその時に全部のことが起こるわけではない。まるで人間ではないかのような仕方で、赤ん坊は生まれてくるのです。私たちがイエス・キリストを信じる時に、神の子として生まれるというのも、それと全く同じことではないかと思います。まだ神様を愛する愛が備わっているわけでもないし、人を愛する愛が十分に備わっているわけでもありません。大きな喜びに満ち溢れているわけでもありません。それはまだ芥子種のような小さな小さな信仰かもしれない。けれども、イエス・キリストを信じるならば、私たちはその時に、神の子として生まれるのです。
時には「何故ですか?!」と叫びたくなるような、人生の嵐に出会うこともあるでしょう。そんな中で、私たちは何度も失敗を繰り返すのです。けれども、イエス・キリストを信じる神の子は、その度にイエス・キリストの十字架の贖いによって赦していただきながら、またもう一度やり直してみようと、何度でも立ち上がっていくのです。そして、そういう失敗の繰り返しの中で少しずつ成長が与えられ、イエス様に似る者へと造り変えられて、いつしか、本物の信仰者となっていくのではないでしょうか。これが神様の約束です。「キリストを信じる人々に神の子となる資格を与える」という約束であります。ここにいる私たち一人一人が、そのことの証人ではないかと思います。