恵みと真理に満ちるキリスト
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・・16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
ヨハネによる福音書 1章14節-18節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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この「栄光」というのは「素晴らしさ」と言い換えてもよいでしょう。私たちは、イエス・キリストというお方がどんなに素晴らしいお方であるかを、つぶさに見て、知って、悟った、とヨハネは語っているのです。そしてヨハネは、この自分たちが見た栄光について次のように説明しました。14節の最後の言葉です。「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
イエス様の栄光、その素晴らしさは、「恵みと真理に満ちていた」と要約することが出来る、このようにヨハネは報告したのでした。この後の15節から18節までの箇所は、この14節の「恵みと真理に満ちていた」ということの説明になっています。ですから、今日の箇所の中心は、この「恵みと真理に満ちていた」という御言葉にあります。
この恵みという言葉は、あえて説明する必要はないでしょう。神様の愛が、私たちに具体的に届いてくる時に、これを「恵み」と言うのです。神様の愛は、遠くの方から、人知れず私たちを愛しているというような、ボンヤリとした愛ではありません。具体的に届いてくる愛です。特に神様の愛は、イエス・キリストを通して私たちに届いてくる愛となりました。この私たちに届いてくる愛、つまり恵みは、キリストの内に満ちていた、と言うのです。16節のところに、この満ちていたという言葉が説明されています。16節。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」
つまり、イエス様の内には汲んでも汲んでも汲み尽くすことが出来ないような恵みがある、私たちはその中から恵みの上に更に新鮮な恵みを受け取ることが出来る、とヨハネは語っているのです。
以前、ある方が、自分は長い信仰生活を続けているけれども、本当に罪深い人間であることを、年を重ねるごとに、より深く思い知らされています、という意味のことを語っておられました。年を重ねるごとに、自分の罪深さが分かってきた。これは裏返して言うならば、そういう自分であっても、なお愛し続けて下さる神様の愛の深さも分かってきた、ということでしょう。最初、信仰をもった時には、神様の愛はこの程度のものだと思っていたのが、毎年毎年、いやそうではなかった。神様の愛は本当はもっと大きかった。いやこれでもまだ足りない、もっともっと大きかった。そうやって年を重ねるごとに新鮮な驚きを覚える。恵みの上に恵みを受けるとは、そういうことでしょう。たとえ何十年信仰生活を送ったとしても、なお新鮮な恵みが注ぎ続けられる。新鮮な感動があるのです。ですから、私たちは毎週、こうやって礼拝にやってくるのではないでしょうか。もうこれで神様の愛は打ち止めです。これ以上の恵みは期待できません。そういうことであれば、もう私たちはキリスト教を卒業し、教会に来る必要もないでしょう。けれども、そうではないのです。恵みの上に更に恵みを受ける。汲めども汲めども、その恵みは尽きることがない。神様の愛には限界がないのです。
またここで言う「真理」というのは、突き詰めて言うならば、「神様についての真理」と言い換えてもよいでしょう。神様がどんなお方であるかをはっきりと示す真理、これがここで「真理」と言われていることの中身です。キリストは言(ことば)であるお方として、つまり私たちに語りかけて下さるお方として、ご自身のことを私たちに語りかけて下さる神様です。どうやって語りかけて下さったのかと言うと、この世にお生まれになる前から、自然を通し、あるいは旧約聖書の預言者を通して、永遠の神様として語りかけて下さいました。けれども、最後にイエス・キリストは、私たちが想像も出来ないような素晴らしい仕方で語りかけて下さったのです。言葉は肉となった。弱い人間の姿になり、十字架の道を歩まれて、最後には十字架に張り付けにされながら、神様はこういうお方なのだと、はっきりと示して下さったのです。神様が罪を忌み嫌われることは、旧約聖書の中で、何度も繰り返し語られてきたことでした。しかし、どれぐらい罪を忌み嫌われるのかは、まだボンヤリとしていたのです。ところがイエス・キリストは、この罪のためには、たとえ独り子であっても見捨てなければならない、それほどまでに神様は罪を忌み嫌われるのだと、ご自身の十字架への生涯を通して、はっきりと表されたのです。また、神様が私たちのことをどれほど愛しておられるのか、ということについても、旧約聖書の預言者たちが、これまで一所懸命に語ってきたことでした。しかし、イエス・キリストは、最後に十字架の上で、その肉を裂き、血を流しながら、これほどまでに神様はあなた方のことを愛しておられる、とはっきりと示されたわけであります。このキリストの語りかけの中に真理は満ち溢れていました。つまり、神様がどんなお方であるかが、このキリストの内に十分に現れていたのです。
今、私たちは、新型コロナウィルス感染症によって悩まされ、不安の只中に置かれています。けれども、今、私たちは、どんなに暗闇の中にあっても、旧約の時代よりも、もっと鮮やかな仕方で神様を信頼し、希望をもって歩むことが出来ます。何故ならば、神様は、私たちの救いのために、独り子の命をも惜しまずに差し出して下さったお方だからです。それほどまでに私たち一人一人を、愛して愛して止まないお方だからであります。そんな神様が、みすみす私たちを滅びるままにしておかれるはずがありません。信仰の目をもって、私たちの周りを見渡すならば、きっと色んな恵みが見えてくるはずです。その私たちに注がれているイエス・キリストの恵みを数え上げながら、共々にイエス・キリストをほめたたえたいと思います。そして、この感謝と賛美とをもって、この一週間も主の御前に歩む者でありたいと思うのです。