荒れ野で叫ぶ声
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- 説教
- 吉田謙 牧師
19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人(びと)たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させたとき、20 彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した。・・・・ 22 そこで、彼らは言った。『それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。』23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。‘主の道をまっすぐにせよ’と。』
ヨハネによる福音書 1章19節-28節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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洗礼者ヨハネは、「あなたは誰なのか」という問いに対して、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である!」と答えました。声というのは、発したとたんに消えてしまうものでしょう。洗礼者ヨハネは、自分という存在を、そういう儚いものと受けとめていたのでした。声は、あることを伝えさえすれば目的を果たします。つまり、洗礼者ヨハネは、「自分は跡形もなく消えていく存在であり、それで良いのだ。ただ私には伝えなければならないことがある。指し示さなければならないお方がいらっしゃる!」と言ったのです。また履物のひもをとくという最も卑しい仕事であっても、この救い主に対しては自分はそれをする資格さえもない、と答えたのでした。これが洗礼者ヨハネの証しでした。
旧約聖書のイザヤ書にこういう御言葉があります。「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」イザヤ書40章7節以下の御言葉です。この御言葉から言うならば、洗礼者ヨハネは、このように確信していたのではないでしょうか。「とこしえに立つ神の言葉」である「まことの救い主」を指し示すのが、私の人生の意味であり、目的である。自分は人間に過ぎず、それ故、やがて草や花のように枯れ、しぼんでいくことだろう。しかし、私が指し示すお方は、とこしえに立ち続けるお方。このお方を指し示すために、私は生まれて来たのだ!」と。このように洗礼者ヨハネは、最も深いところで、自分が何者であるかを知っていたのです。だからこそ、彼は自分が人々から称賛され、あがめられることを少しも求めなかったのでしょう。自分が何者であるかを知らない人は、周りの人や世間に評価され、賞賛されることを求めます。何故ならば、自分が何者であるかが分からないために、自分が周りの人からどのように評価されているのか、ということだけが自分の価値を決めることになってしまうからです。しかし、自分が何者であるかを本当に知っている人は、世間の評価によって自分が変わるものではないことを、ちゃんと知っています。ですから、その様なものに惑わされることがないのです。
自分が何者であるかを知る。それは、自分が何のために生まれてきたのかを知る、ということでしょう。自分が今生きているのは、このことのためである、と明確に言い切れることであります。洗礼者ヨハネは、それが言えたのです。ですから彼は、人から賞賛される必要がなかったのでした。
私たちはどうでしょうか。あなたは何者かと問われて、私たちは何と答えるでしょうか。職業を答える。これが一般的な答え方かもしれません。会社勤めをしている人ならば、「○○会社の社員です」と言うのかもしれません。けれども、この答えは、停年になり、会社を辞めてしまうと、果たして何者になるのかという問いが残ります。あるいは、私は三人の子の母親ですと言うかもしれません。これは、会社の社員のように、やめることはないでしょう。生涯母は母であり続けます。けれども、空の巣症候群という言葉があります。子育てに勤しんでいた母親が、子供を育て上げると、まるでひな鳥で賑わっていた巣が、皆巣立って空っぽになってしまった後に残された親鳥のように、子を育て上げた後で、何のために自分は生きているのかが分からなくなってしまう、そういうことが起こるのだそうです。私は日本人です、という答えもあるでしょう。この答えは、かなり永続性がありそうです。しかし、日本人であるというだけで、生きる意味や目的を見出せるということは、ほとんど無いのではないかと思います。もしあるとするならば、それは戦争の時ぐらいでしょう。
あなたは何者なのか。この問いへの答えは、そう簡単なことではありません。しかし私たちには、洗礼者ヨハネと同じように、明確な答えが与えられています。その答えは、「私は、イエス・キリストを神の子、救い主と信じるクリスチャンです」というものです。この答えは、私たちが何をしていても、どのような人生の局面を生きている時でも、私たちに人生の意味と目的を教え、私たちが為すべき事を教えてくれるのではないかと思います。私たちは、神様に造られ、神様に救われ、神様に生かされている者たちです。ですから私たちは、喜びと感謝をもって主イエス・キリストをあがめ、主の栄光のために働き、主の御業にお仕えするのです。これが私たちの人生です。これは私たちの人生の一部ではありません。全てであります。
洗礼者ヨハネは、「私は荒れ野で叫ぶ声である。イエス・キリストを指し示す声なのだ!」と証ししました。しかし、皆が皆、キリストを指し示す声になる必要はありません。私たちは皆、それぞれ与えられている賜物が違います。しかし、今私たちは、キリストの体なる教会の一員とされているのです。「あなたは誰ですか」と問われた時に、まだイエス様のことを知らなかった時の私たちは、その答えに窮していたのかもしれません。けれども、今、私たちは「私はイエス・キリストを信じるクリスチャンです!」とはっきりと証しすることが出来るのです。私たち自身は、本当にちっほけな存在にしか過ぎません。けれども、私たちが信じているお方は無限であり、永遠であり、不変であり、完全です。主は私たちの罪のために十字架の上で死に、三日目に甦られて永遠の命の希望を私たちに与え、今も生きて私たちに寄り添っていてくださいます。この主としっかりと結びつき、その体の一部分として、「私は、この主の愛を伝える口です!」「この主の愛を伝える手です!」「この主の愛を伝えるために走る足です!」「この主の愛を見つめる目です!」「この主の愛の香りを嗅ぐ鼻です!」と、私たちもあの洗礼者ヨハネと同じように、それぞれの賜物に応じて、本当に伸びやかに、喜びと感謝をもって主を証ししていきたいと思います。