メシアに出会う
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- 説教
- 吉田謙 牧師
38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ――“先生”という意味――どこに泊まっておられるのですか』と言うと、39 イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
ヨハネによる福音書 1章35節-42節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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ここには、イエス様の最初の弟子になったアンデレたちが、どのようにしてイエス様に出会ったのかが記されています。ここでイエス様は、「振り向いて、彼らが従って来るのを見て」、問いかけられます。「あなたがたは何を求めているのか?!」と。これは、このヨハネによる福音書において、イエス様が最初に語られたお言葉です。主は、私たちの心の飢え乾きに目を注ぎ、そこから生まれる願いに耳を傾け、「何を求めているのか?!」と問いかけて下さいます。これは、本当に深い問いかけではないかと思います。ところが、今日のイエス様と弟子たちとのやりとりは、いささか噛み合わない印象があります。イエス様から、「何を求めているのか?!」と問われた時に、彼らは、「先生、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねた、と言うのです。こういう答えを聞くと、少々拍子抜けするような思いがいたします。「イエス様がどこに泊まっていようが、そんなことはどうでもいいことではないか。せっかくイエス様が『あなたがたは何を求めているのか』と尋ねて下さったのだから、どうしてもっと気の利いた答えが出来なかったのだろうか?!」と私たちは考えるのではないかと思います。けれども、彼らのこの言い方は、私たちが考えているように、お茶を濁すようにして「先生、あなたはどこに泊まっておられるのですか?」と問うたのではありません。これは、律法の教師に教えを乞う者の通常の問い方であった、と言われます。これは、先生の泊まっている宿を聞き、自分もそこに行って、じっくりと先生から教えを請いたい、という願いなのです。つまり彼らは、イエス様から「何を求めているのか?」と問われて、「是非イエス様に私の人生の問題を聞いていただきたい。私が抱えている求めを知っていただきたい。じっくりと膝詰めで語り合いたい!」こう願ったのではないでしょうか。
しかし、ヨハネによる福音書の言葉使いからすると、これはただそれだけの意味ではなかったと私は思います。何故ならば、この「泊まった」と翻訳されている言葉は、ヨハネが好んで用いる言葉の一つだからです。これは、どんな時でも離れない、ずっと一緒にいる、ということを言い表す言葉です。キリストの言葉がいつも私たちの内に響き渡り、キリストがいつも私たちに向かって語りかけて下さるのです。寂しい時でも悲しい時でも、様々な問題を抱えている時でも、キリストは十字架の愛で私たちを包み込んで下さいます。「天地万物を造られた神様が、全力を尽くしてあなたを救いたいと願っておられる。そのために神様は、ご自分の独り子を十字架につけて下さった。あなたの命はそれほどまでに尊い命であり、あなたという人間は、それほどまでに神様から愛されている。あなたは神様に愛されるために生まれた。あなたは世界でたった一人しかいない、決して失われてはならない、掛け替えのない大切な大切な存在なのだ!」こう主は語りかけて下さるのです。この主の言葉が私たちの内にずっととどまり、響き渡っている、決して無くなることがないのです。これが、今日の箇所で「泊まる」という言葉で言い表されている、イエス様と私たちとの深い結びつきです。
アンデレは、このキリストのもとに「泊まる」という経験を通して、目が開かれて、このお方こそ救い主であると悟りました。そして、その翌日に彼がまずしたことは、伝道であった、「メシアに出会った」と自分の愛する兄弟に告げることであった、と言うのです。アンデレは、もう午後の4時からずっとイエス様のそばにいて、その夜はイエス様の素晴らしさに心打たれたのだと思います。これからどうやって伝道するのか、そんなことを最初から考えていたわけではないでしょう。またイエス様も最初から伝道の話など、おそらくなさらなかったと思います。けれどもアンデレは、イエス様に会った翌日には、まず伝道したのです。伝道はどうすべきなのか、どうあるべきなのか、そういうことをあれこれ聞かなくても、アンデレには一番話したくてたまらない出来事が、もう既にあったのです。それは、「私は救い主に出会った」という出来事でした。これは、今でも同じではないかと思います。救い主に出会った!私を無限の愛で愛し抜いて下さるお方に出会った!このお方は、苦しみの時、試練の時に、十字架の深い愛で私たちを立ち直らせて下さった!そういうお方に私は出会った!これは、私たちがまず愛する者たちに語りたいことではないか、と思います。そして、これこそが伝道の原点なのです。
アンデレは兄弟のペトロに比べると、それほど目立つ人間ではありませんでした。福音書にも、そう度々登場するわけではありません。しかしこのアンデレがイエス様に出会い、兄弟ペトロに「メシアに出会った」という証しをしなければ、また彼をイエス様の元に連れて行かなければ、やがて初代教会のリーダーとなったシモン・ペトロは存在しませんでした。アンデレは、それほどまでに大きなことをしたのです。けれども、それはアンデレの力でしたのではありません。アンデレは、イエス・キリストに出会い、その喜びを伝えずにはおれなかった。その喜びを抑えることが出来なかった。ただそれだけのことです。しかし、それがアンデレの思いを遙かに越えて、キリスト教を大きく推進していく力となっていきました。私たちがイエス様に出会い、本当に喜び満ち溢れているならば、それは自然と言葉や行動に溢れ出ていくものでしょう。それが自然と証しになっていくのです。神様はそういう私たちの小さな小さな証しを、大きく大きく用いて下さいます。伝道の根本は、まず私たち自身がイエス・キリストと真実に出会い、喜び満ち溢れることなのです。