新しい礼拝
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
ヨハネによる福音書 2章13節-22節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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イエス様は、エルサレム神殿が商売の家になっていることを深く嘆かれ、憤られました。そして、この堕落した礼拝を改革するためにも、自分は十字架の上で屠られる過越の小羊とならねばならない、とかたく決意なさったのでした。
紀元七十年のユダヤ戦争の時に、ローマ軍の攻撃によって、実際に、ヘロデの神殿は破壊され、瓦礫の山と化しました。それ以降、今日までエルサレム神殿は廃墟のままです。ユダヤ人たちは、この神殿の崩壊後に、人々の生活の中心をどう再建すべきかを思案しました。中には、神殿の復興を願った人々もいました。けれども、使徒たちと初代教会の信仰による答えは、このヨハネによる福音書が指し示しているように、明らかです。それは、古い神殿の復興ではなくて、十字架に架かり、復活なさったイエス・キリストこそ真の神殿であり、その真の神殿によって神様と共に生きる、ということでした。
私たちは、あのイエス・キリストが凄まじいまでの熱心をもって改革し、築き上げて下さった、十字架と復活をくぐり抜けた真実の礼拝へと招かれています。この真実の礼拝には、犠牲も両替も必要ありません。また誰も廃除されることがありません。みんなが招かれていて、みんなの居場所がある、そういう礼拝です。私たちは、そういうイエス様が命懸けで築き上げて下さった真実の礼拝へと招かれているのです。何という幸いでしょうか。
この礼拝の場で、十字架の上で死に、三日目に甦られたイエス・キリストに目を注ぐならば、私たちは全く罪赦されたことが分かります。先週も学んだように、キリストが与えて下さる十字架の血潮の恵みは、飲んでも飲んでも飲み尽くせない、本当に豊かな恵みなのです。そもそも、神の独り子が、どうして、あのような惨めな姿で十字架につけられ、苦しんで苦しんで苦しみ抜いた末に、壮絶な死を遂げなければならなかったのでしょうか。それは他でもない私の罪のためです。他でもないあなたの罪のためであります。私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけた。それほどまでに私たちの罪は大きいのです。それは、あのイエス・キリストの十字架を見れば一目瞭然でありましょう。
またあの壮絶なイエス・キリストの十字架は、神様の愛がいかに大きなものであるかをよーく表していると思います。何故、神様はそんな犠牲を払ってまで私たちを救おうとなさったのでしょうか。それは、神様が私たちをそれほどまでに愛し抜いて下さったからです。つまり、神様にとって私たちの命は、御子を犠牲にするほどまでに価高く、尊く、掛け替えのないものであった、ということでしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された!」そのことが、この十字架の上で、はっきりと現わされたわけであります。
しかも、イエス・キリストは、私たちの罪を担って十字架に死なれただけではなくて、罪と死に打ち勝ち、甦って下さいました。この十字架と復活のイエス・キリストを見上げる時に、私たちにも罪と戦う勇気が与えられます。「この世にある限り、あなた方には様々な苦難があることだろう。時には信仰が崩れそうになることもあるかもしれない。しかし、勇気を出しなさい。私はあなた方に代わって、それら全てに打ち勝った。恐れに打ち勝ち、サタンの誘惑に打ち勝ち、罪と死の力に打ち勝った。あなたが頑張るのではない。私が支える。私が守る。私が担う。私が共にいる。どんなことがあろうとも、私は決してあなたを見捨てない!」このように主は私たちを励まし、ここから再びそれぞれ遣わされた場所へと送り出して下さるのです。
あの有名な哲学者パスカルが、病気の苦しみの中で、このように祈った、という言葉が伝えられています。「主よ、わたしは、ただ一つのことを知っているだけです。それは、あなたに従うのは善で、あなたに逆らうのは悪であるということです。このほか、すべてのことのうち、どれが善く、どれが悪いかを知りません。健康と病気と、富と貧しさと、この世のあらゆることがらのうち、どれが自分に有益であるかを知りません。それは人間と天使との力を超え、あなたの摂理の秘密の内に隠されている分別です。その摂理をわたしはあがめ、あえて探索しようとは思いません。それゆえに、主よ、わたしをどんな時にも、あなたの御心にかなう者にしてください。今のように病気をしている時には、自分の苦しみの中で、あなたをあがめさせて下さい。」
彼がこのように祈れたのは、十字架と復活のイエス・キリストを信じ、崇める信仰に生きていたからでしょう。「どんなに罪深い自分であっても、その自分の罪を背負って、御子が十字架の上で死んで下さった。もう自分には神様の怒りは向けられない。この病も神様からの罰ではなくて、きっと何か意味があるに違いない!」このように彼は受けとめることが出来ていたのです。また、「たとえ、この病によって命が奪われるようなことになったとしても、自分には御子が勝ち取って下さった死に対する勝利と永遠の命が約束されている。だから大丈夫!安心なのだ!」こういう平安が、彼には与えられていたのだと思います。だからこそ、このような祈りが出来たのではないでしょうか。
私たちも、今、このイエス・キリストの十字架と復活のお姿をしっかりと心に刻みたいと思います。そして、決して変わることのない、この「神様の愛」と「赦しの恵み」と「確かな平安」を心の奥底に刻みながら、心からの真実の礼拝を捧げたいと思います。