衰えても、なお喜ぶ
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。
ヨハネによる福音書 3章22節-30節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の箇所には、洗礼者ヨハネという人の素晴らしい生き様が伝えられています。彼は、自分の人生に衰えの陰が差し始めた時に、「私は喜びで満たされている」と語ることが出来たのです。私たちの人生にも、必ず衰えの陰が差し始める時がやってきます。私たちは、皆やがては年老いて、必ず死んでいくのです。けれども、自分の人生に衰えの陰が差し始めた時に、がっかりして、打ちしおれるのではなくて、なお喜ぶことが出来た、これは誰もが憧れるような生き方ではないかと思います。
この洗礼者ヨハネという人は、何度も言いますように、この福音書を書いたヨハネとは全くの別人です。彼は、イエス・キリストが、救い主としての活動を始める直前に現れて、ユダヤの国に大きな信仰運動を巻き起こした人でした。「もうすぐこの世に救い主がやって来られる。その時に備えて、それぞれが悔い改めるように」と説きながら、悔い改めた人々には、その身が清められたしるしとして洗礼を授けたのです。この洗礼者ヨハネの説教は、イスラエルの民衆の心を動かしました。彼が洗礼を授けていたヨルダン川の河辺には、続々と人々が詰めかけ、大勢の人々が彼から洗礼を受けたのです。ところが彼は、自分が崇拝されることを極端に嫌い、「自分は救い主ではないのだ」と言い続けました。そして彼は、やがてイエス様が救い主としての活動を始められた時に、自分ではなくて、イエス様を指さしながら、「見よ、このお方こそが救い主なのだ!」と民衆に告げたのでした。この時から、多くの人々が、洗礼者ヨハネではなくて、イエス様の後を追うようになっていきました。今日の御言葉は、そのようにして人々が、次第にイエス様のもとへと集まり始めた時の洗礼者ヨハネの言葉を伝えています。彼は、自分が次第に衰えていくことを自覚しながら、なお「私は喜びで満たされている」と語ることが出来たのです。決してやせ我慢ではなくて、本当に心からそう語ることが出来た。これは本当に驚くベきことでありましょう。
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」これは、イエス様の方の役割は、どんどん大きくなっていき、私の役割は、どんどん小さくなっていく、私は退場しなければならない、という言葉です。花婿であるイエス様が主役であり、洗礼者ヨハネは、イエス様が人々に語りかけるまでのお膳立てをする役割を担っていました。ですから、花婿であるイエス様が人々に語りかけて下さったなら、彼の役割は無事終了し、「私の務めは全て終わった!」と喜びをもって退場していくことが出来るのです。こうして彼は、自分の人生に衰えの陰が差し始めた時を、喜びながら過ごすことが出来たのでした。本当に素晴らしい人生ではないかと思います。けれども、この素晴らしい人生は、決して彼だけのものではありません。イエス様と人々を結びつける働きというのは、クリスチャンであるならば、皆それぞれに担っている働きではないでしょうか。教会の中で、あるいは自分の友人や家族について、私たちは、イエス様とその人を結びつけるために、それぞれに務めを担っていると思います。そして、この務めには、素晴らしい喜びが伴います。私たちがお手伝いをしたその人がイエス様と結びつき、イエス様がその人に向かって愛の語りかけをして下さる時に、私たちは、そのイエス様の御声を聞きながら、喜びをもって退場することが出来るのです。家庭集会や求道者会、あるいは様々な場面で、私は皆様から色んな証しを聞く機会が与えられています。私は、そういう証しを聞くのが大好きです。それは、その証しを通して、その方の内で神様が生き生きと働いておられ、神様がその方に向かって惜しみなく愛を注いでおられることを知ることが出来るからです。これが伝道する者の喜びであり、この時、ヨハネが味わった喜びでありましょう。
あの旧約時代の最高の王様、ダビデ王は、神様から、こう宣告されました。「あなたは、大きな戦争を繰り返し、多くの血を大地に流したから、あなたがわたしのために神殿を築くことは出来ない。それはあなたの息子ソロモンの時代に先延ばしにされる!」と。この神様の宣告を受けて、ダビデはどうしたでしょうか。もうやる気をなくし、腐ってしまったでしょうか。決してそうではありません。彼は、この神様の宣告をしっかりと受け止め、むしろ喜んで、今、自分に出来る精一杯の仕方で下準備をしたのです。たとえ自分が神殿を建てることが出来なくても、その神殿を見ることなく自分は死んでしまったとしても、次の世代の者たちが素晴らしい神殿を建てることが出来るようにと、ダビデは喜んで、今できる精一杯の仕方で、その下準備をしたのでした。
私たちには、それぞれに、家庭において、職場において、また教会において、自分が目指すべき目標というものがあると思います。そして、出来るならば、自分が生きている間に、ある程度の目処はつけておきたい、成果を上げたい、その結果を見たい、と思っています。確かに、あるものについては、その成果や結果を見ることが出来るでしょう。けれども私たちは、その全てを知ることは出来ません。結局、私たちは、神の国が完成するまでは、全て納得いく結果を見ることは出来ないのです。では、神の国の完成をこの目で見ることが出来なければ、私たちの働きは空しいのでしょうか。目標に達する前に、道半ばで死んでしまったならば、私たちの生涯は無に帰するのでしょうか。決してそうではありません。神の国は必ず完成します。そして、その神の国の完成のためには、私たちの小さな小さな働きが、どうしても必要なのです。そういうわけで、計画全体は神様に全てお委ねし、私たちは、それぞれの役割に徹したいと思います。そして、その役割が終えたならば、あの洗礼者ヨハネのように、私たちも、潔く、喜んで退場していくものでありたいと思います。