日曜朝の礼拝「心の飢え渇きを癒される方」

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心の飢え渇きを癒される方

日付
説教
吉田謙 牧師
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」・・・13 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」・・・17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
ヨハネによる福音書 4章1節-18節

 今日の箇所でイエス様は、井戸の側で休んでおられる時に、その井戸に水を汲みに来たサマリア人の女性に向かって、「水を飲ませてください」と何気なく語りかけておられます。そうやって、この女性とイエス様との会話は始まりました。今日の18節の御言葉が明らかにしていることは、この女性は、すさんだ生活をしていた、ということです。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」このようにイエス様は、この女性のすさんだ生活を指摘なさったのです。五人の夫がいた。これは全員死に別れた、ということではないでしょう。おそらく、次々に男を変えていった、ということではないかと思います。結婚しては相手の愛を裏切るのです。あるいは相手から裏切られるのであります。もう一度、結婚しても、また裏切ったり、裏切られたりする。そういうことを彼女は繰り返してきたのです。最初の一人や二人ということならば、男運が悪かった、ということもあるのかもしれません。けれども五人の夫と別れて、今は夫ではない男と関係をもっている、これは到底、男運が悪かったということだけでは済まされません。やはり彼女自身に、何か大きな問題があったのではないでしょうか。今は結婚の関係を信じることが出来ず、たとえ男女の関係があったとしても結婚関係にまでは至らない。そういう中途半端な生活を彼女はしていたのです。イエス様は、そのことをよくご存じの上で、なおこの女性の傍らに喜んで立って下さったのでした。しかもイエス様がこの女性に一番最初に語りかけた言葉は、叱責の言葉ではありませんでした。「あなたは、なんというふしだらな人間なのか!」という裁きの言葉でも、あるいは、以前、ニコデモに語られた時のように、「あなたは新しく生まれ変わらなければならない!」という悔い改めを迫る言葉でもなかった。おそらく彼女は、これまで何度もそういう言葉を聞かされてきたのではないかと思います。「そんなダラしない生き方をしていてはいけない!悔い改めて、新しく生まれ変わらなければならない!」と。しかし彼女は、何度生まれ変わろうとしても、結局、生まれ変わることが出来なかったのです。イエス様は、そのこともよくご存じでした。ですから、このサマリアの女性に対してイエス様は、ニコデモの時のように厳しく迫られたのではなくて、まるで自分の方が弱い人間であるかのようにへりくだり、「水を飲ませてください」と彼女に優しく語りかけて下さったのです。

 こうしてイエス様とこの女性との会話が始まりました。そして、その会話が進む中で、10節の御言葉が語られたのです。「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

 「あなたは、この生きた水が必要なのではないか?!」とイエス様は、この女性に語りかけて下さいました。これは言い換えるならば、「あなたの魂は渇いているのではないか!」ということです。「あなたの魂は渇いているので、あなたは五人も夫を変え、今も結婚以外の関係で、男との関係をずるずると続けなければならない!」このようにイエス様は指摘なさったのでした。これは本当に深い魂の診断ではないかと思います。しかも本当に優しい診断であります。人を見た目で判断したり、表面に現れた生活によって「もうこの人間は汚らわしい!」と裁いたりはしない。イエス様は、「あなたの一番奥深くにある問題は、この魂の渇きにあるのではないか?!」と、この女性のすさんだ生活の一番奥深くにある魂の渇きの問題に目を留めて下さったのです。

 おそらく、この女性は、結婚生活によって、この魂の渇きが癒されることを期待していたのでしょう。これは何も珍しいことではありません。どちらかと言うと、これは普通の考え方ではないかと思います。素晴らしい男性と巡り会い、深く愛されたならば、自分の人生は喜びで満たされ、寂しさや虚しさからも解放されるのではないか、と彼女は思い描いていたのです。おそらく彼女も最初の結婚で、そういうことを少しは味わったのだと思います。けれども、しばらくすると、その期待が無惨にも引き裂かれてしまった。裏切られたのです。二度目も、おそらく新鮮な思いで結婚生活を始めたのでしょう。しかし、しばらくすると、やっぱりそれは自分の魂の奥底を満たすものではなかったと気づく。そういうことを繰り返していく内に、もう結婚生活に期待することはやめてしまい、しかしそれに代わるものもありませんから、夫ではない者と共に今は生きているのです。

 そういうことを考えると、ここでイエス様が語られた言葉の中には、本当に深い意味が込められていると思います。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とイエス様は言われました。これは、直接には井戸水のことを語っています。しかし、ここにはもう一つの深い意味合いが響いているのです。結局、イエス様が差し出そうとされたのは、魂を潤す霊的な水でした。一人の男性によって自分の人生を満たしてもらおうと思ったならば、それはやがては渇くのです。あるいは私たちが何かこのことが自分の人生を満たすものではないかと思い、それを追い求める時に、例えばそれは子供であったり、仕事であったり、お金であったり、地位や名誉や色んな欲望だったりするわけですけれども、しかしそれはやがては渇くのです。この水を飲むものは誰でも、また渇くのであります。

 私たちは、何によって自分の人生の虚しさを埋めることが出来る、と思っているでしょうか。これは本当に深い問いではないかと思います。イエス・キリストは、「私がその人生の空しさを埋めることが出来る!」と言われました。「この水を飲むものは誰でも渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る!」と。

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