ご覧、あなたは良くなった
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
14 あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。
ヨハネによる福音書 5章9節-18節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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イエス様は、エルサレムの都のベトザタという池の側で、38年間病気で横たわっていた一人の人に、「良くなりたいか?!」と語りかけられました。しかし、この人は、このイエス様の呼びかけに応えることが出来ませんでした。「治りたいのです。どうか助けて下さい!」と願う希望さえ、この人は打ち捨ててしまっていたのです。ところがイエス様は、この人が全く希望を失い、信仰をもって願うことすら出来ない状態にいた時に、「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい!」と突然、救いの恵みを差し出して下さいました。すると、どうでしょう。この人は、たちまち病気が治り、床を担いで歩き出した、と言うのです。今日の14節以下には、それからしばらく経った後、この病気の人が神殿にやって来て、そこでもう一度イエス様にお会いしたことが語られています。イエス様は、その時、この病気の人に向かって、こう言われたのです。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」と。
ヨハネによる福音書において、この「罪」という言葉は、一つ一つの罪というよりも、人間が陥っている罪の状態のことを言い表していることが多い、と言われます。おそらく今日の箇所も、そういう箇所なのでしょう。つまり、今日の箇所で「もう罪を犯してはいけない」と戒められているのは、悪口を言ったり、妬んだり、嘘をつくという諸々の罪のことを言っているのではなくて、そういう諸々の罪の根っこにある「恵みの神様に背を向けて生きる生き方」のことを指しているのです。
この38年間病気だった人は、あのベトザタの池にいた時に、恵みの神様に背を向けて生きていました。イエス様は、この人を癒した後に、再び彼と出会われ、こう言われました。「あなたは良くなったのだ。」これは以前の口語訳聖書では、「ご覧、あなたは良くなった。」と翻訳されていました。本当は、「ご覧」という言葉が、ここにはついているのです。この翻訳の方が原文に忠実な翻訳と言えるでしょう。「ご覧、あなたは良くなった!」「あなたは、これまで恵みの神様に背を向けて生きてきた。それにも関わらず神様の恵みは、そんなあなたにもちゃんと届いていったではないか。あなたのもとにまで神様の恵みは届き、あなたは確かに良くなった。健やかになった。このことをご覧。よく見てみるように!」このようにイエス様は語られたのでした。そして、こう語られた後で、「もう罪の内に生き続けてはいけない!」と教えられたのです。「もうあなたは、神様の恵みに背を向けて生きる必要はない。あなたはもう良くなったのだから、これからは闇の中を生きるのではなく、神様の恵みに目を向けて、光の中を生きるように!」と。
私たちが味わうイエス様の恵みも、将にこれと同じではないかと思います。私たちも、以前は神様の恵みに背を向けて生きてきました。私たちは、天地万物を創られた神様が、私のことを、こんなにも愛しておられることを、全く知らずに、神様に背を向けて生きてきたのです。ところがイエス・キリストは、私たちが敵であった時に、神様を全く知らなかった時に、神様に背を向けて生きていた時に、私たちを救うために十字架の上で死んで下さいました。ある時、私たちは、神様の深い憐れみによって、そのことに気づかされたのです。この神様の底知れない憐れみと恵みに気づかされた時に、私たちの心は打ち震えたのではないかと思います。もう私たちは、神様の恵みを知らない人間のように生きることは出来ません。私たちの人生は、その時から、この神様の愛を受け入れて生きる人生へと変えられていったのです。本当に「良くなった」のであります。この「良くなった」という言葉は「健やかになった」という意味の言葉です。いじけて、暗い方に暗い方にと心を向けるような生き方から、神様の恵みに焦点を合わせながら生きる生き方へと、私たちは変えられていきました。将に健やかになったのです。
私たちは、自分自身が身をもって経験しなければ、本当はどんなに辛いことなのか、どんなに悲しいことなのか、どんなにやるせないことなのかが分かりません。けれども、イエス様は、私たちが経験する全ての苦しみや悲しみを、十字架への道行きの中で、一つ一つ味わい尽くして下さいました。いやそれどころか、私たちが悲しみの中で痛み苦しむ以上に、壮絶な痛みや苦しみを味わいながら、最後には私たちの罪を一手に担って十字架の上で死んで下さったのです。イエス様は、そういうお方として、いつも私たちに寄り添い、共に苦しみ、共に悲しみ、共に涙して下さいます。しかも、ただ同じところに立ち、悲しみを共にして下さるというだけではなくて、十字架の死に打ち勝ち、その傷を完全に癒すことの出来るお方として、私たちに寄り添って下さるのです。「あなたの痛みは知っている。苦しみは知っている。悲しみは知っている。あなたが今くじけそうになっている弱さを私は全部知っている。大丈夫。私があなたの弱さや破れや失敗、罪や背きを全部十字架の上で担った。悲しみや苦しみや痛みの背後にある神の怒りと呪いを全部私が担った。もうあなたには神の怒りと呪いは向けられない。もうあなたは良くなった。健やかになったのだ。だから、諦めてはいけない!悔い改めて新しく生きるように!」このように主は私たちを励ましてくださるのです。この神様の恵みを知った以上、私たちはもう以前のように、苦しみや悲しみに押し潰されて、打ちしひしがれながら生きることは出来ません。パウロが語っているように「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」のです。コリントの信徒への手紙二4章8節の御言葉です。
中には、今日の箇所に登場する38年間病気だった人のように、もうあの人は神様から見捨てられたのではないか、と思えるような人もおられます。愛する者たちが今、そういう状況に置かれている人もおられます。けれども、決して諦めてはいけない。神様は一端捉えた人間を、決して見放すようなことはなさいません。必ず引き戻して下さいます。「あなたは良くなりたいのではなかったか。起きあがりなさい。新しく生きるように!」この言葉が、愛する者たちの心に響き渡る時が必ずやって来ます。そして本当に健やかになり、「ご覧、あなたは良くなった!もう希望のない人のように暗闇の中を生きてはいけない!」この言葉が、愛する者たちに語られる時が必ずやって来るでしょう。そのことを信じ、愛する者たちの救いのために、諦めずに祈り続けたいと思います。