日曜朝の礼拝「魂の養い」

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魂の養い

日付
説教
吉田謙 牧師
 12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
ヨハネによる福音書 6章1節-15節

 今日の箇所には、イエス様が、男性だけでも五千人以上の人々を、五つのパンと二匹の魚で満腹させて下さった、という奇跡物語が記されています。そしてこの奇跡物語は、四つの福音書全てに記されているのです。ただし、ヨハネによる福音書は、他の福音書とは違う仕方で、この奇跡物語を伝えています。では、どこが違うのでしょうか。一番の相違点は、このヨハネによる福音書だけが、このパンの奇跡にまつわるイエス様の説教を伝えている、ということです。6章22節以下に、そのイエス様の説教が記されています。この6章22節以下を読んでいくと、このパンの奇跡には象徴的な意味があったことが分かります。食べるパンのことだけではなくて、このパンが象徴していることがあった。つまり、この奇跡物語は、イエス様がどういう救い主であるかを指し示す「しるし」だったのです。

 私たちは、本当に辛い思いで、愛する者の身の上を心配することがあります。愛する者たちが神様に背を向け、その魂が病んでいるのです。けれども、私たちに出来ることは本当に限られています。イエス様を信じ、心を開いたならば、その魂は癒されるはずなのです。けれども、分かっていても、私たちには、どうすることも出来ません。たとえそれが夫や妻の魂であっても、我が子や実の親の魂であっても、私たちには、その魂に触れることが出来ないのです。けれどもイエス様は、弟子たちの小さな小さな働きを用いて、人々の魂を本当に豊かに養って下さいました。ここに私たちの希望があります。

 では、何故イエス様には、そういう魂の養いが出来たのでしょうか。イエス様はずっと後のところで、このパンの奇跡をこのように解説しておられます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」6章53節の御言葉です。

 人の子というのはイエス様のことです。「私の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に永遠の命はない!」このようにイエス様は教えられたのでした。これは、十字架で裂かれたイエス様のお体と、そこで流されたイエス様の血潮を指し示している言葉です。「食べる」「飲む」という言葉は、「我がものとする」と言い換えた方が分かりやすいかもしれません。つまり、あの十字架の上で裂かれたイエス様の肉と、そこで流されたイエス様の血潮が、他でもない私のためのものであったと我がものとして受けとめる時に初めて、永遠の命は与えられるのだ、とイエス様は教えられたのでした。五千人養いの奇跡が指し示している一番大切なことは、このことだったのです。

 そもそも私たちがイエス様を信じた時の一番大きな喜びとは、いったい何だったでしょうか。イエス様を信じた時の本当に大きな喜びは、私の今までの全ての失敗、全ての罪が赦されていた、この驚くべき恵みでありましょう。またイエス様を信じ続けて、私たちが繰り返し味わう恵みも、悔いてはまた犯す、この私の罪を、イエス様はその十字架の血潮によって全部洗い流して下さった、全部赦して下さった、この恵みです。これに勝る大きな喜びはありません。私たちの魂が本当に豊かに養われ、生きる力が湧いてくるためには、この過去の全ての過ちが水に流されることがどうしても必要なのです。即ち、この過去の全ての過ちを水に流す十字架の恵みを私たちに差し出されるイエス・キリストの存在そのものが、私たちの魂を養う命のパンなのだ、ということでしょう。

 さて、今日の12節のところに、「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。」とあります。この『少しも無駄にならないように』という言葉は、このヨハネによる福音書には、頻繁に出てくる言葉です。例えば、既に学んだ3章16節の有名な御言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」、そこにある「滅びないで」という言葉と、この「無駄にならないように」という言葉は、原文では全く同じ言葉なのです。この箇所においては、イエス様が与える命のパンは、永遠の命を与える朽ちることのないパンなのだから、少しも無駄にしてはならない、滅ぼしてはならない、ということを象徴的に言い表しています。そして、当然、その命のパンを食べる者も、また滅んではならない、ということでしょう。

 この後、イエス様は、ご自分のことを王様に祭り上げようとする無理解な人々の願いを拒まれ、山に退かれました。そして、38節以下のところで、イエス様はそういう人々に向かってこう言われるのです。「わたしが天から降(くだ)って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」6章38節以下の御言葉です。

 ここでの「一人も失わないで」という言葉も、先程の「滅びないで」とか「無駄にならないように」と言われていたのと同じ言葉です。「私には、あなた方の知らないパンがある。それは、父の御心を行うことである。そして、その父の御心とは、私に与えて下さった人を一人も滅ぼさないで、守り通すことなのだ!」イエス様は、無理解な人々に対して、こう教えられたのでした。たとえ無理解な人であっても、私に与えられた人は、一人も滅ぼさない!先程の『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』というお言葉の中には、そういうイエス様の凄まじいまでの決意が込められていたのです。これは、私たちのことでもありますし、また私たちが心配している愛する者たちのことでもあります。これは、本当に感謝なことではないかと思います。私たち一人一人のことを、決して失いたくない、滅ぼしたくない、無駄な者にはしたくない、皆、神様の御前で、等しく値打ちある者として生きて欲しいとイエス様は切に願い、あの十字架の道行きを突き進まれたのでした。

 本当に無理解で、すぐに自分勝手な思いで突き進み、何度も同じ失敗を繰り返す愚かな私たちです。けれども、そんな私たちが一人も滅びないで、永遠の命へと導かれるようにと父なる神様は願われ、その父なる神様の御心を行うために、御子イエス・キリストは、あの壮絶な十字架の道行きを歩み通されたのでした。何という幸いでしょうか。この驚くべき恵を我がものとして受けとめることさえ出来れば、もう大丈夫です。何も心配する必要はありません。不甲斐ない自分にくよくよせずに、あるいは愛する者の頑なさに絶望せずに、「一人も滅ぼさない!」という壮絶な決意をもって、命のパンを差し出し、それによって私たちの魂を養って下さるイエス様に全てを委ねて、安心して歩んで行きましょう。

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