わたしは命のパンである
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- 説教
- 吉田謙 牧師
35 わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
ヨハネによる福音書 6章22節-35節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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イエス様は、ご自分を指さしながら「わたしが命のパンである」と宣言なさいました。これは驚くべき宣言ではないかと思います。この「わたしが命のパンである」という言葉は、先週も学びましたように、「エゴー エイミー!」「私だ!」という言葉の後に、「命のパン」という言葉が付け加えられた言葉です。イエス様は、私たちの魂にとって、今、何が必要であるかをちゃんとご存じです。そして、その時々に最も相応しい仕方で私たちに近づいて下さるのです。イエス様が、この時、神の御子のご性質の中から、特に「命のパン」というご性質を選び出して語られたということは、魂の飢え渇きを癒す「命のパン」が、人々にはどうしても必要だったからでしょう。
ある神学者が、私たち人間の存在を脅かすもので、人間の知恵や努力では、どうしても克服できないものが三つあると語っていました。そして、その三つとは、「罪」と「死」と「虚無」である、と言うのです。確かにその通りでしょう。死は、私たちがどんなに避けようとしても、必ずやって来ます。私たちの知恵や努力をどんなに重ねても、死を克服することは出来ません。また、罪もそうです。他人に対して犯してしまった罪でさえ完全になかったことには出来ません。ましてや、隠れたことをも全てご存じの神様の前で、神様に対して犯した罪を自分の力で消し去ることなど、到底できないのです。また「虚無」もそうでしょう。「虚無」とは「生きていくことの空しさ」のことです。私たちがこの「空しさ」に一端とらえられてしまうと、自分で頑張ろうと思っても力が湧いてきません。たとえ誰かが励ましてくれたとしても、なかなかその気にはなれないのです。
人々は、自らの罪と死に脅えていました。言いようのない空しさに囚われていたのです。そもそもイエス様を探し回っていた群衆は、日々、食べることに事欠き、生活に困窮している貧しい人々でした。また色んな病や障碍を抱え、日々、苦しんでいる人々だったのです。そういう人々が、日々の飢え渇きや空しさの解決を求めて、イエス様のもとに殺到したのです。決して、彼らの願いそのものが間違っていたわけではありません。私たちも、日々、様々な飢え渇きや欠乏、空しさを覚えて藻掻き苦しんでいるのではないかと思います。それを解決して欲しいと願うこと自体、何も間違いではありません。ここでイエス様は、それらを決して無視なさったのではなくて、むしろ、それらの根底にある根源的な問題の解決を指し示して下さったのでした。
そもそも、私たちが罪と死の支配に脅え、様々な空しさに囚われてしまうのは、いったい何故でしょうか。この世界は、本来、神様が造られた素晴らしい世界です。私たちも神様に造られた者であり、神様に望まれて、この世界を生き始めました。ところが私たち人間は、造られた神様に背を向けて、自分勝手な生き方をし始めたのです。その時にこの素晴らしい世界が住みづらい世界になっていった。私たちの人生も空しく、悲惨なものになっていったのです。これは当然のことでしょう。そもそも私たち人間は、神様と共に生きるようにと造られたわけで、その神様から離れて生き始める時に、その人生が空しくなるのは当然です。この世界が住みづらくなるのは当然であります。
もし、単に困窮からの解放、欠乏を満たすことだけが目的であるならば、きっと神様は全ての人の欠乏や必要を超自然的な仕方で満たすことのできる、超人的な救い主をお与えになったことでしょう。けれども、私たちに欠けているのは、与えられて補われる「何か」ではありません。そうではなくて、問題は、もっと根源的なこと、神様との関係が断絶している、ということだったのです。それゆえに、私たちに本当に必要なのは、この神様との交わりを妨げている罪の問題の解決にありました。
イエス様が「わたしが命のパンである」と宣言されたのは、実際に、イエス・キリストこそ、私たちと神様との関係を修復し、本当の意味で魂の飢え渇きを癒し、まことの命にあずからせてくださるお方だからです。そして、それは丁度、パンが人に食され、肉体に命が与えられるのと同じ仕方で提供されるのです。パンは口に入れられ、噛み砕かれ、消化されて命を与えます。要するに、パンは自らを与えることによって人に命を与えるのです。それと同じようにイエス・キリストも、自らを与え尽くすことによって、人に命を与えるパンとなって下さったのでした。
ですから、この後イエス様は、もっと露骨な表現で、ご自分がこれからなそうとしておられることを語られます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(6章53節以下)
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むように!」このことが一体何を意味しているのか、この時、この言葉を聞いた人々は、誰一人理解できませんでした。けれども、やがて弟子たちは、その意味するところを知ることになるのです。それは、イエス・キリストが十字架の上で肉を裂かれ、血を流されることを意味していたのだ、ということを。
私たちを神様との交わりへと導き、命を与えるためには、そのようにしてイエス・キリストが、十字架の上で、ご自分を贖いの供え物として、与え尽くして死ななければならなかったのです。何故ならば、私たちが神様との交わりを回復し、神様と共に生きるためには、まず私たち自身の罪が取り除かれねばならなかったからです。こうしてイエス様は、私たちの罪を全部担い、ご自分を十字架の上で屠られる小羊として与え尽くすことによって、私たちにまことの命を与える「命のパン」となって下さったのでした。