永遠の命に至る命のパン
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- 説教
- 吉田謙 牧師
53 はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
ヨハネによる福音書 6章48節-59節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の箇所でイエス様は、ご自分がどうして永遠の命を与えることが出来るのか、その根本的な理由を明かにされました。それは、主イエスの肉を食べ、血を飲まなければ永遠の命は得られない、ということでした。これは、当時のユダヤ人たちにとって、とんでもない話でした。旧約聖書には、動物の血を飲んではならない、という教えがありました。動物の肉を食べる場合にも、その血は地面に流さなければならない、と戒められていたのです。ましてや、人の血を飲むなどということは考えられないことでした。ですから来週、学ぶ60節のところには、こう言われているのです。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」こう言って、多くの弟子たちが、この日からイエス様のもとを離れていった、と言うのです。それだけ、このイエス様のお言葉は、人々に大きな衝撃を与えた、ということでしょう。
勿論、これは実際にイエス様の肉を食べ、血を飲むことではありません。今、聖餐式の恵みを受けている私たちにとっては、このイエス様のお言葉は、よく理解できる言葉ではないかと思います。イエス様は、聖餐式のパンを差し出しながら、「取って食べなさい。これは私の体である!」と言われました。またぶどう酒を差し出しながら、「この杯から飲みなさい。これはあなたがたのために流す私の血である!」と言われました。イエス様の肉と血というのは、十字架に釘付けにされ、槍で刺し貫かれたイエス様の身体と、そこで流されたイエス様の血を象徴しています。ですから、その肉を食べ、血を飲むというのは、このイエス・キリストの十字架の死によって実現した救いにあずかる、ということなのです。神の独り子であるイエス・キリストが、ご自分の命を私たちの救いのために犠牲にし、与え尽くして下さいました。このことによって父なる神様は私たちの罪を赦し、私たちを神の子として受け入れ、永遠の命をも私たちに与えると約束して下さったのです。そもそも、動物の血を飲んではならないと旧約聖書に教えられていたのは、血にこそ命が宿っていると考えられていたからです。命は神様のものです。ですから動物の肉を食べる時にも、命は神様にお返ししなければなりません。そのために血を地面に流すように、と教えられていたのです。しかし神様は、独り子であるイエス・キリストの命を、私たちの救いのために犠牲にし、与え尽くして下さいました。イエス・キリストの命である血が、私たちの救いのために流されたのです。ですから、このイエス・キリストの十字架の死による救いにあずかることは、イエス・キリストの命にあずかることであり、その命の象徴である血を飲むことと同じことなのだ、とここでは言われているのです。
では、このユダヤ人たちが受けた衝撃は、ただの勘違いに過ぎなかったのでしょうか。勿論、勘違いは勘違いです。実際にイエス様の肉を食べ、血を飲むようなことではないのですから!けれども、ここには、ただの勘違いではすまされないような大変に衝撃的なことが語られているのです。人の子の肉を食べ、その血を飲む!これは十字架のイエス・キリストを信じることが、私たちにとって、どれほど衝撃的なことであるかを、的確に言い表している言葉です。特にヨハネはこの衝撃を正確に伝えるために、この「食べる」という言葉を普通の「食べる」という言葉ではなく、獣が餌を食べる時の「食べる」という言葉を用いました。バリバリと音を立てて食べる。むしゃむしゃと食べる。これはそういう響きをもった言葉です。それほどまでに、このイエス・キリストの十字架は衝撃的なことなのだ、とヨハネはどうしても伝えたかったのでした。
第二次世界大戦中、ナチスドイツの手によってユダヤ人の大量虐殺が行われました。そんなある日、ある収容所で子供の処刑が行われました。絞首刑です。大人であれば体が重いですから、すぐに首が絞まって死んでしまいます。けれども、その子はまだ幼い子供ですから、体重が軽くて、なかなか死ねません。長い間苦しんで苦しんで、ようやく死ねたかと思うと、またピクピクと痙攣し始める。もう見てはいられない。その壮絶な光景を見て人々はこう叫びました。「なんてむごいことを。神は何をしておられるのか!何故、眠っておられるのか!」と。すると、ある牧師はこう言ったそうです。「いや、神は眠っておられない。あの子をしっかりと見なさい。あの子の中にこそキリストがおられる。あの子と一緒にキリストは苦しんでおられる。あの子と一緒にキリストは死んで下さった!あの子の中にキリストの十字架が見えないか!」と。
この世には、目を覆いたくなるような悲惨な出来事が沢山起こります。「何故、こんなことが起こるのか?!神は本当に生きておられるのか?!」と言いたくなるようなことが、私たちの身の周りでも沢山起こります。けれども、そこで私たちがしっかりと見つめなければならないことは、その悲惨な出来事の中に、イエス・キリストの十字架を見出す、ということです。そこでもイエス・キリストは苦しみ、嘆き、ついには死んで下さいました。どんなに悲惨な出来事であったとしても、もうそこには神の怒りや呪いは一欠片も残っていません。何故ならば、イエス・キリストがその悲惨な出来事の中で、神の怒りと呪いを一身に受けて、死んで下さったからです。これは、私たちの人生に起こり来る様々な苦しみや悲しみにも言えることでしょう。そこにおいても、イエス・キリストが共に苦しみ、共に涙し、私たちに寄り添っていて下さいます。そして、その苦しみや悲しみの背後にある人間の罪や汚れや弱さを、全部イエス・キリストが一身に担い、十字架の上で肉を裂き、血を流して、私たちの身代わりとして死んで下さったのです。ですから、確かにまだこの世には様々な苦しみや悲しみ、理不尽なことが沢山起こりますけれども、しかしそれはもう決定的なことではない。神様の怒りや呪いを、全てキリストが私たちの身代わりとなって引き受けて下さったからです。このように私たちが信じている事柄は、本当は衝撃的なことなのです。けれども、このことを受け入れない限り、永遠の命は私たちのものにはなりません。