神の時を見分けよ
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- 吉田謙 牧師
6 わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。
ヨハネによる福音書 7章1節-13節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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「私の時はまだ来ていない。私はこの祭りには上って行かない!」こう言われたイエス様が、そのすぐ後にエルサレムに上って行かれたのです。これはいったいどういうことでしょうか。この謎を解く鍵は、この「私の時」という言葉です。この「私の時」という言葉は、その前の兄弟たちの言葉を受けての言葉です。兄弟たちは4節のところで「自分を世にはっきり示しなさい」と言いました。兄弟たちは、皆が集まるこの仮庵祭こそが、救い主が自分を世にはっきりと現す絶好の機会ではないかと考えたのでした。大勢の人々が集まる都エルサレムで、皆が驚くような奇跡を行うならば、イエス様の救い主としての地位が確立するのではないか、と考えたのです。しかしイエス様にとって、自分が世にはっきりと示される時は、そういう華々しい奇跡で自分の力を示す時ではありませんでした。そもそもイエス様は、ご自分の力を人々に示すために、奇跡を行われたことは一度もありません。イエス様が奇跡を行われたのは、すべて虐げられている人々や弱っている人々、悲しんでいる人々を助け起こし、救うためでした。そういうわけでイエス様が言われた「私の時」というのは、兄弟たちが考えていたような、皆が驚く奇跡を行い、人々の前で救い主としての華々しいデビューを果たす時ではなかったのです。むしろそれは、神様の怒りと呪いを全部背負って死ぬという、呪われるべき刑罰、十字架の時だったのでした。華々しいデビューどころか、それは人々にとって躓きでしかなかったのです。「そういう呪われた十字架においてこそ、私の救い主としての姿が最も鮮やかに現される!」これがイエス様のご生涯を貫いていた核心でした。
「私の時はまだ来ていない!」「本当の救い主の姿を鮮やかに現す、あの十字架の時はまだ来ていないのだ!」こうイエス様は言われたのです。この後、すぐにイエス様は仮庵祭に出かけて行かれます。しかし、それは十字架に架かり、救い主としてのお姿を明らかにするためではありません。そうではなくて、その道備えをするために、イエス様は密かにエルサレムに上っていかれたのでした。
全ての時は、神様が定めておられる、これが聖書の「時」の理解です。イエス様は神様の時を待っておられました。神様の御心に目を向けながら、世にはっきりとご自分を指し示す時、十字架の時を待っておられたのです。そして神様の時を見据えながら、今はまだ自分の時ではない、と判断なさったのでした。
私たちの人生には、様々な時があります。「あちらに行ったら楽が出来そうだ!でも、こちらに行ったら、かなり辛そうだなぁ。」そういう分かれ道に立たされる時があるのです。そういう時、私たちは何を判断基準に、歩むべき道を選ぶでしょうか。楽な方が良い、いや、厳しい方が人間的には成長するから、厳しい方を選ぼう!そういう判断をするのでしょうか。決してそうではありません。私たちは、神様が定められた時を生きるのです。それは、やはり世の判断とは違います。
以前、学生たちのキャンプで、ある先生の証しを聞きました。その先生は、かつて営業マンとして働いておられ、脂がのりきっている時に、他の会社から引き抜きを受けたそうです。おそらく、以前の会社よりも、良い条件で迎えてくれる、ということだったのでしょう。「もてる力を最大限に用いて、もっと情熱をもって仕事に取り組むべきではないか?!私の会社に来れば、君の才能はもっともっと生かされるだろう!」このように誘われ、先生はかなり心揺さぶられたそうです。けれども、その時に、この抜擢の声がイエス様からの招きの声に聞こえた、と先生は言っておられました。「お前はこのままでいいのか?!この仕事で、お前の力が最大限に生かされるのか?!そうではないはずだ。私に従いなさい!」と。先生は、この時、こういうイエス様の招きの声を聞いたのです。そして、それが一つの切っ掛けとなり、牧師になる決心をしたのだ、と言っておられました。凄いことですね。営業マンとして好条件で迎えてくれる。こんなに恵まれた道はないでしょう。それに比べて、牧師になる道は、本当に厳しい道です。経済的にも、今までよりもかなり厳しくなりますし、色んな自由もきかなくなります。そういう様々な困難を承知の上で、好条件で迎えてくれる道を棒にふってまで、何故、先生は牧師になる決心をしたのでしょうか。この世的な考え方からするならば、そんなに大きな犠牲を払ってまで牧師になるなんて、どうかしている、と思われるのかもしれません。けれども先生は、この時、神様の時を見極めたのです。今、自分は神様から何を期待されているのだろうか?!「あなたは今こそ牧師になるように!」との御声に、この時、先生は聞き従ったのでした。
イエス様が歩まれた道は十字架の道でした。イエス様が見つめていた時は、十字架の時です。しかし、その十字架の時は、ただただ苦しいだけの時ではありません。それは復活の時、勝利の時、喜びの時に繋がっていたのです。イエス・キリストを信じる私たちが神様の時を見分ける時に、ある時、私たちは苦しみを味わうこともあるでしょう。けれども、私たちのこの苦しみも勝利に繋がっています。喜びに繋がっているのです。しかも、やがて喜びが与えられるだろうと言うのではなくて、ヨハネによる福音書から何度も教えられているように、もう既に私たちは永遠の命に生き始めているのです。生きることの喜び、その充実感を、今という時に、私たちは既に味わっているのです。
先程の先生は、エリート営業マンの道を捨てて、牧師への道を選び取りました。その後、色んな苦しい時を経験されたそうですが、「今は牧師になって本当によかったと思っています。是非、皆さんも牧師になってください。こんなに祝福に満ちた務めはありません!」このように本当に喜び満ち溢れて熱く語っておられました。私もこの先生の言葉に同意いたします。
どうか、皆様も、今、自分に神様が何を期待しておられるのかを探り求めながら、是非、神様の時を生きていただきたいと思います。そして、その道は、茨の道であると同時に、勝利の道、喜びの道、永遠の命に続く祝福の道であることをも、是非、覚えていただきたいと思います。