神の御心を求めて
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- 吉田謙 牧師
21 イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。」
22 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。
ヨハネによる福音書 7章15節-24節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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この「驚いている」という言葉は、「感心している」という意味ではなくて、「怪しんでいる」という思いが込められた言葉です。では、人々にそのような不信感を抱かせた一つの業とは、いったいどういう業だったのでしょうか。それは、もう少し後の23節後半を見ればよく分かります。「わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」以前、このエルサレムで、イエス様が三十八年間病気だった人を安息日に癒されたことが切っ掛けとなり、人々がイエス様を殺そうとつけねらうようになった、という出来事がありました。5章1節以下の物語です。イエス様は、この出来事を引き合いに出しながら、今日の残りのところで、安息日にしたこの私の業は、神様の御心に適ったことなのだ、と主張なさったのです。
イスラエルで割礼を受けることは、神の民であることのしるしでした。この割礼というのは、具体的には、男の赤ちゃんの男のシンボルの包皮を一部分切り取るという手術のことを言います。この割礼は、生まれて八日目に必ず施さねばならない、と律法で定められていました。ですから、その八日目の日が、たまたま安息日に重なったとしても、この手術だけは、やってよいことになっていたのです。何故でしょうか。それをしなければ、その子が神様の祝福から漏れてしまう、と受けとめられていたからです。その割礼には、その子の救いが懸かっていたのです。「このように安息日の戒めは、人の救いのためになら、形式的に守る必要はないとあなた方は考え、事実、そのように実行しているではないか。そうであるならば、どうして『わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか?!』」これがイエス様の議論の道筋でした。
23節で「全身を癒した」と翻訳されている言葉は、「人間全体を健やかにした」という言葉です。先程のベトザタの池で三十八年間病気で横たわっていた人のことを考えると、「全身を癒した」というよりも「人間全体を健やかにした」と言い換えた方がいいのかもしれません。イエス様はただ彼の肉体だけを癒されたのではなくて、心まで健やかにして下さいました。人間全体を健やかにし、将に彼を救って下さったのです。これは、どう考えてみても、神様の御心に反したことではありません。それなのに、どうしてあなた方は私に対して殺意を抱くのか、と主は問われるのです。
24節。「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」
安息日に人を癒すことは仕事をしたことになり、安息日規定に違反している。これは形式的な、うわべだけの議論ではないかと思います。神様の御心を本当に見つめようとしていないので、そういう議論になってしまうのです。「うわべだけではなくて、正しい判断をするように!全人的な癒しが行われたこの出来事を見て、何故、あなた方には、これが神様の御心であることが分からないのか?!あなた方は、律法の字面だけを見て裁いているのではないか?!」このように主は言われるのです。
神様の御心を行いたいと願っているならば、イエス様の教えが神様から出た教えであるかどうかが分かる。これが先週学んだ箇所で、イエス様が教えられた中心点でした。今日の箇所には、その神様の御心を行おうとする生き方が、ユダヤ人たちの失敗例を通して明らかにされていると思います。神様の御心の中心は、私たちが神様を愛し、人を愛して生きることです。そして、それは、今日の箇所のユダヤ人たちの失敗例のように、私たちの日々の生活の中で、具体的な仕方で試されるのだと思います。
私たちは、聖書を通して、私たちに語りかけておられる神様の御心を、どうやって聞き取っているのでしょうか。聖書は神様の御言葉なのだから、聖書通りに生きていれば間違いない!確かにその通りでしょう。けれども、私たちがよく覚えておかなければならないことは、今日の箇所に登場するイエス様に殺意を抱いたユダヤ人たちは、まじめに信仰に生きていた人たちであり、聖書に基づいて生きていた人たちであった、ということです。彼らは聖書に基づき、自分たちの怒りは神様の怒りであると確信し、正義感に燃えてイエス様を殺そうとしたのです。
勿論、聖書の御言葉が間違っていたわけではありません。その読み方が問題だったのです。愛を求めておられる神様の御心に焦点を当てることなく、ただ聖書を字面だけで読むならば、残念ながら私たちは、聖書を「人間を縛り付けるだけの規則の書物」にしてしまいます。
「安息日に人を癒した!」と大騒ぎしている人は、自分の気持ちとしては、聖書を大切にし、聖書通りに生きているつもりなのです。けれども、彼らは神様の御心に注目していません。神様の御心の中心は、私たち人間が神様を愛し、人を愛して生きることなのです。もし、イエス様に殺意を抱いた人たちが、この神様の御心を求めていたならば、このベトザタの池に三十八年間も横たわっていた人を見て、知らん顔をしていたはずがありません。何とかならないだろうかと、出来る限りのことはしていたでしょう。たとえ何にも出来なくても一緒に祈っていたと思います。その祈り求めていた人がイエス様によって癒されたのです。その時に、「ああよかった、よかった!」と皆で喜ぶのは当然のことでしょう。その時には、もう安息日規定など吹っ飛んでいたと思います。ところが、彼らは、この人を愛していませんでした。おそらく、この人のことを「神様から捨てられた、どうでもいい人間だ!」と思っていたのでしょう。だから彼らにはイエス様の行動が分からなかったのです。これは、神様が私たちに一番望んでおられることを忘れて、ただ聖書の字面だけを追ってしまったために起こった過ちでした。事柄は至極単純なのです。何も難しいことではありません。この三十八年間、病気で池の側で横たわっていた人を愛していたかどうか、ただそれだけのことです。
私たちも、日々の生活の中で聖書をどう読んでいるかが問われているのではないかと思います。聖書には具体的に、こういう時にはこうしなさいとか、ああしなさいという具合に、事細かな指示が記されているわけではありません。ですから、一人一人が具体的な生活の中で、祈りつつ、神様の御心をたずね求めながら、聖書に基づいて、与えられた応用問題を解いていくことが、私たちには求められているのです。