聖霊の時代
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- 説教
- 吉田謙 牧師
41 メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。
ヨハネによる福音書 7章40節-52節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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マタイによる福音書のクリスマス物語によると、東の国の占星術の学者たちがエルサレムにやって来て、「救い主としてお生まれになった方はどこにおられますか?」と尋ねると、エルサレムの学者たちが聖書を調べ、「救い主はベツレヘムから生まれることになっています。聖書にはそう書いてあります」と答えた、と言われています。「救い主はベツレヘムから出る!」これは聖書から人々が導き出した当時の常識でした。実際にイエス様は、あのクリスマス物語が語るように、ベツレヘムでお生まれになったのです。けれども、その後、すぐにガリラヤ地方に移り住まれましたから、人々はイエス様がベツレヘムでお生まれになったことを知りませんでした。ですから人々はイエス様のことを、「ナザレ出身のナザレ人イエス」と呼んでいたのです。そのために、「ナザレから出るような救い主など未だかつて聞いたことがない!だから、イエスは救い主ではない!」と主張する人たちが大勢いたのです。
この福音書が書かれた頃、ちょうど私たちの教会で祈っている「主の祈り」と同じように、ユダヤ教の人々が毎日唱えていた「十八祈祷」と呼ばれる祈りがありました。この祈りの中に、この福音書が書かれた頃、一つの言葉が書き加えられたと言います。こういう祈りの言葉です。「ナザレ人らと異端どもとは、瞬く間に滅び失せ、命の書から消し去られ、義人たちと共にその名を記されることがないように!」
「ナザレ人ら」というのは、クリスチャンのことです。ナザレのイエスに従う人間たちという意味で、ユダヤ教の人々はクリスチャンのことを「ナザレ人たち」と呼んだのでした。「あのナザレ出身の人間を救い主と信じている彼らは、愚かで非常識な呪われるべき人間たちである。瞬く間に滅び失せよ!」このように、ユダヤ人たちは毎日祈っていたのです。おそらく、この福音書を最初に手にした教会の人々は、「ああ、イエス様も私たちと同じような偏見にさらされていたのだなぁ」という思いを抱きながら、この箇所を読んだのではないかと思います。
そういうことを思う時に、私たちは、先週学んだ最後のところを、もう一度、読み返さなければなりません。39節後半。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」 これは、福音書記者ヨハネの大事な注意書きです。「あまりイエス様と自分とを重ね合わせ過ぎてはいけない!何故なら、イエス様がこのことを語られた時には、まだ聖霊が降っていなかったからである!」このように福音書記者ヨハネは、ここで注意を促すのです。「まだ」というのは、この福音書を読む人々の時には、もう既に聖霊は降っている、ということでしょう。「今、イエス様は、既に栄光を受けておられ、あなた方には聖霊が降っている。神様の力強い働きによって、イエス様がどんなお方であるか、目が開かれる時代が既に始まっているのだ!しかし、この時はまだ聖霊が降っていなかった。この違いを決して見過ごしてはならない!」このようにヨハネはここで注意書きを書いたのです。
イエス様の十字架と復活と昇天の後に、聖霊は教会に降りました。イエス様のことが分かるように、聖霊を人々の心に遣わされたのです。この聖霊のことが、先週学んだ38節のところで、このように言われていました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”即ち『聖霊』について言われたのである。」 この聖霊によって、イエス様を信じる人々は、救いの恵みを自分が受け取るだけではなくて、その後に自分の内から命の水が流れ出て、それが全世界へと広がっていく、とイエス様は約束して下さったのです。
この7章では、「まだ」でしたが、今は、「もう既に」聖霊が降っている時代です。もう救いの恵みは人々の偏見を打ち破り、届いていく時代がやって来たのです。「イエスはナザレ人であり、ガリラヤ出身である。ナザレ人らは瞬く間に滅び失せよ!」この打ち破りがたい偏見を打ち破るのは、他でもない聖霊です。しかも、信じる者の内側から溢れ出る聖霊の働きであります。天から超自然的に力が働いて、その人がクリスチャンになるのではありません。そうではなくて、イエス様を信じる者たちの内側から溢れ出る聖霊の働きによって、この偏見は打ち破られていくのです。
癌の宣告を受け、4年間の闘病生活の末、天に召されていった、あるクリスチャンの姿を、その娘さんはこのように振り返っておられます。「4年間の闘病生活だった。否、闘病というより、病の苦しみの中で、母親は神に近づいていったというべきかもしれない。不思議なことに、病室に重苦しい空気はなかった。見舞い客から笑い声さえ起こることもあった。『死』という言葉が禁句の病室で、母親は穏やかな表情で死を語り、天国の希望を語った。慰める側の見舞客が、かえって慰めを受けた。医師にとっても、こんなことは初めてであった。癌の宣告後、患者の顔にむしろ輝きさえ発見した主治医は、自らの人生そのものを問い直された。診察とは別に、その主治医は病床を訪ね、自らの心の問題を打ち明けることもあった。その主治医には、死の問題に解決がなかった。しかし、今、死に直面しているこの人の姿に、死の解決を見ていた。母親は多くの人々に、悲しみ以上に、深い慰めを残して天に召されていった。」 これは何も特別な例ではありません。クリスチャンの内側から溢れ出る命の水が川となって溢れ出る。そしてそれが周りの人たちを潤していく。これは私たちの周りでも起こっていることではないかと思います。
信じている者が本当に喜びに満ち溢れている。これは口に出さなくても、側にいる者たちには自然と分かるものでしょう。こんなにも力強い、イエス様を表す道筋はありません。家族や友人の中に生き生きとしたクリスチャンの姿を見て、教会にやって来た人は、今も沢山起こされていると思います。決して品行方正で立派な優等生にならなければならないわけではありません。私たちは、イエス様を信じても、なお何度も悔いては罪を犯す弱い者たちです。しかし、それでもイエス様の十字架の愛で愛され、赦されている喜びの中で、私たちがイエス様を信じて生きるならば、私たちの内側で働く聖霊が、どんな偏見をも打ち破るはずなのです。