日曜朝の礼拝「わたしもあなたを罪に定めない」

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わたしもあなたを罪に定めない

日付
説教
吉田謙 牧師
11 女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ヨハネによる福音書 7章53節-8章11節

 一人の女性が姦通の現場を押さえられ、捕らえられました。そして、その女性は、早朝に神殿で教えておられたイエス様のもとに連れてこられたのです。彼女を連れてきたのは律法学者やファリサイ派の人々でした。彼らは、この女性を真ん中に立たせ、イエス様にこう質問したのです。4節。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』

 姦淫の罪というのは、ユダヤの律法では、非常に大きな罪で、偶像崇拝や殺人の罪と並ぶほどの重大な罪であった、と言われています。旧約聖書のレビ記20章や申命記22章には、この姦淫の罪に対する刑罰として、はっきりと死刑が規定されています。しかも実際には、その死刑は、石打ちによって執行されるのが普通であったと言われていますから、律法学者たちのこの言い分は、法的には全く正しかったのです。けれども、6節の前半には、彼らがそう言ったのは「イエスを試して、訴える口実を得るためであった」と言われています。彼らのいかにも正しい言葉の背後には、一つの悪巧みがあったのです。つまり、これは、どちらに転んだとしても、イエス様に不利になるよう巧妙に練られた罠でした。

イエス様は、彼らの問いに対して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と答えられました。このお言葉は、人間の罪の重荷を背負っておられるイエス・キリストが、その深い嘆き、悲しみ、苦しみの中からしぼり出すようにしてお語りになったお言葉だったのです。そのお言葉は、騒ぎ立てている人々の心を深くえぐり、沈黙をもたらしました。彼らは、このイエス様の一言によって、はっとさせられたのではないかと思います。

 私たちは、この女性のように姦通の現場を押さえられたことはありません。しかし、様々な誘惑にさらされ、罪を犯す寸前で、何とか罪を犯さずに済んでいる。それが私たちの現実ではないかと思います。性の誘惑、富の誘惑、名誉への誘惑、嫉妬の誘惑、怒りの誘惑。私たちは、一歩間違えると犯罪者になってしまうかもしれない、そういう様々な誘惑にさらされながら、何とか一線を越えずに済んでいるのではないでしょうか。決して自分が正しいから罪を犯していないのではありません。たまたま一線を越えるほどの厳しい誘惑に遭っていないだけのことです。あるいは罪を犯しても、たまたま明るみに出ていないだけのことではないかと思います。このイエス様のお言葉は、私たちの心の中にある罪、自分だけしか知らない罪の闇に、私たちの目を向けさせるお言葉です。そして、このイエス様のお言葉を聞いた人々は、年長者から始まり、一人また一人とその場から立ち去り、ついにはイエス様とその女性だけがそこに残ったのでした。

 イエス様のお言葉によって、その場には誰もいなくなってしまいました。彼女に石を投げることが出来る者は一人もいなかったのです。彼女は助かりました。石で打ち殺されなくてもすんだのです。しかし、このことによって彼女は、今や自分の罪を本当に裁くことの出来るただ一人のお方の前に立つことになったのです。その時に彼女は、「このお方は、私をさらし者にして、責め立てていたあの人たちとは全然違う!このお方こそ私を本当に罪に定め、裁くことのできるただ一人のまことの『主』なのだ!」と気づかされたのでした。「主よ、だれも」という言葉は、そのことを表しています。彼女はこれまで、自分の人生の主人は自分だと思っていました。「自分の体は自分のものだから、自分の欲望に正直に生きて何が悪い!むしろ自分を罪人扱いして裁こうとしているあの連中こそ偽善者ではないか!」と思っていたのです。けれども、今彼女は、自分の人生のまことの主と出会いました。まことの主と出会ったことによって、自分が主であると言い張り、自分の欲望に従って生きてきたことが大きな罪であることに初めて気づかされたのです。「ごめんなさい。赦して下さい。あの人のせいでも、この人のせいでもなかった。全て私が悪かったのです!」彼女は、正直に自分の罪を認め、心からの悔い改めをもってイエス様のもとにとどまったのでした。

 そういう彼女にイエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われました。罪を犯している彼女を裁き、石を投げることの出来るただ一人のまことの主であるイエス・キリストが、「私もあなたを罪に定めない」と言って下さったのです。このお言葉も、先程の「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というお言葉と同じように、人間の罪の重荷を一身に背負っておられるイエス様が、その深い嘆き、悲しみ、苦しみの中からお語りになったお言葉です。彼女は、命を与え、人生を導いて下さる主なる神様を見失い、自分の命も体も自分のものだと言い張り、欲望と愛を取り違えているような愚かな人間でした。また自分のことは棚に上げて、自分の罪を断罪する人々に対して、激しい敵意や憎しみを抱く身勝手な人間でした。主は、彼女のそういう醜い罪を全てご存じでした。その上で、それらの罪を全部背負い、その重荷に苦しみ、嘆きつつ、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と語られたのです。つまり、イエス様がお語りになった彼女に対する罪の赦しの宣言の背後には、あの十字架の苦しみと死があったのでした。「あなたの主である私が、あなたの罪を全部背負って十字架の上で死ぬ!それゆえに私もあなたを罪に定めない!」これが、このイエス様のお言葉の意味していたことだったのです。

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