わたしは世の光である
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- 説教
- 吉田謙 牧師
2 わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。
ヨハネによる福音書 8章12節-20節
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今学んでいる7章と8章には、ユダヤの秋のお祭りである仮庵祭の時に、イエス様とユダヤ人たちが交わした様々な議論が伝えられています。この仮庵の祭の期間中は、毎日、祭司がシロアムの池の水を黄金の器にくみ上げて、神殿の祭壇に注ぐという水汲みの儀式が行われていました。これは以前にもお話しした通りです。しかし、このお祭りには、それに加えて、もう一つの楽しみがあった、と言われています。それは夜の間続く「光のお祭り」でした。この七日間、夜になると、この神殿の境内に高々と四本の大きな金の燭台が立てられ、祭司が梯子に登ってそれに火を灯すと、その燭台の光は煌々と照り輝き、神殿だけではなく、エルサレムの町全体を明るく照らし出した、と言われています。また、この光り輝く燭台のもとでは管楽器や弦楽器が奏でられ、そこでは多くの人々が一晩中踊り明かした、とも言われています。これが仮庵の祭のクライマックスでした。
この夜の間中、灯し続けられる光は、昔、神様が与えて下さった救いを記念する光でした。イスラエルの人々は、その昔、エジプトの奴隷の状態から救い出され、約束の土地カナンに向かって、四十年間、荒れ野の旅路を続けたのです。この荒れ野の旅の間中、神様は絶えずイスラエルの人々を導き続けられました。昼は雲の柱が彼らを導き、夜は火の柱がイスラエル全体を照らし出したのです。このようにイスラエルの行くところには、絶えず光があり、これが神様が共におられることのしるしでした。そもそも、この仮庵の祭は、テント住まいをしながら荒れ野を旅した時のことを思い起こすお祭りでした。それで、あの夜の荒れ野を照らし続けた火の柱を記念して、エルサレム神殿の境内では、それに匹敵するような大きな火を灯し、お祝いしたのです。「かつて、あのような素晴らしい救いの出来事が起こったのだから、いつの日にか神様はそれに匹敵するほどの素晴らしい光をもって私たちを導き、救い出して下さるに違いない!」イスラエルの人々は、こういう期待を抱きながら、この仮庵の祭を祝っていたのでした。
その光のお祭りで喜び踊ったばかりの人々に向かってイエス様は、「私が光である」と言われました。「あなた方を喜びで満たす光、神様が共にいて下さることのしるしである光とは、他でもない私のことなのだ!」とイエス様は告げられたのです。それだけではありません。「私は世の光である」と主は言われました。イスラエルの人々は、イスラエルを救って下さる光を待望しながら喜び踊りました。しかしイエス様は、「わたしは世の光である」と言われたのです。「イスラエルだけではなく、私は世界中の人々に神様の恵みをもたらす、世の光なのだ!」と告げられたのでした。
イエス様は、ここにいる私たちだけを照らす光ではありません。そうではなくて、私たちの知っている友人や家族やこの千里の地に住む人々、そういう全ての人々を照らす世の光なのだ、と言われたのです。
「私は世の光である!」これは言い換えるならば、世には光が必要である、それほどまでに世は暗闇なのだ、ということでしょう。暗闇、これは見えないことを意味します。周りも見えないし、自分も見えない、それが暗闇が意味していることではないかと思います。14節のところでイエス様はこう言われました。「あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか知らない。」イエス様が「どこから来てどこへ行くのか知らない。」これはイエス様の正体を知らない、ということでしょう。神様が共にいて下さることのしるしであるお方、神様の恵みを身をもって届けて下さるお方、そういう光なるイエス様のことを世は知らない。これは即ち、世は神様のことを知らない、ということです。そして、神様を知らないということは、結局、神様に造られた自分自身のことも知らない、ということでしょう。自分が「どこから来てどこへ行くのか知らない」のです。自分が一体誰なのか、自分とは一体何者なのか、自分の正体が分からない。それほどまでに世は暗闇に覆われている、と主は言われるのです。
これは、決して他人事ではありません。私たちも、しばしば自分を取り巻く周りの状況や、自分自身が見えなくなることがあります。そういう時には、決まって神様のことも見えなくなるのです。「どうして自分ばかりがこんな問題に突き当たるのか?!」「なぜ自分はこんな病や重荷に苦しまなければならないのだろう?!」私たちは、しばしば、こういう解決の糸口が見い出せない問題に直面することがあります。自分がどこから来て、どこへ行くのかが分からない。まるで出口の見えないトンネルの中を、さ迷っているかのようです。そこでは、私たちを守り、支えて下さるはずの神様の姿が全く見えていません。しかし、イエス様はそれではいけない、と言われます。「私を見て、私を知るように。私こそが世の光なのだ。私に従う者は自分がどこから来て、どこへ行くのかを知るようになる。決して暗闇の中を歩かない!」このように約束して下さったのです。
人はどこから来て、どこへ行くのでしょうか。それは神様のもとから来て、神様のもとへと帰っていくのです。しかもその神様は、御子を十字架に送ってまで私たちを愛し抜いて下さった神様です。私たちが神様のもとに帰っていく時に、即ち、私たちがやがて、この世の人生を終えて、死んで神様の裁きの前に立たされる時に、神様はその裁きの全てをイエス様に任せて下さいます。そしてイエス様は、私たちの犯した数々の罪を見ながら、「その罪は全部私が十字架の上で担ったから、あなたの罪は全て赦されている。私はあなたを罪に定めない!」と宣言して下さるのです。全く虫のいい話ですね。信じられないような話です。けれども、これが神様の御心なのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16) この神様の御心を行い、この神様の御心を人々に知らしめるために、イエス・キリストは、世の光としてこの世にお出でになったのです。