真理はあなたを自由にする
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- 説教
- 吉田謙 牧師
32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。
ヨハネによる福音書 8章31節-38節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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ここでイエス様が言われた「自由」とは、いったいどういう「自由」なのでしょうか。それは罪の奴隷状態からの自由です。34節のところでイエス様は、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と言っておられます。
イエス様は、「真理は、この罪の奴隷状態から、あなた方を自由にする!」とイエス様を信じた人々に約束されました。人を罪から自由にするような真理。それはいったいどういう真理でしょうか。この福音書を書いたヨハネという人は、この「真理」という言葉を好んで用いています。今までにも何度か出てきましたし、これからも出てくると思います。その全ての箇所を読めば、この真理という言葉の意味も、自ずとはっきりしてくるでしょう。今日はその主な箇所を幾つか選んで目を通しておきたいと思います。
まず最初にヨハネによる福音書14章6節です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
私が真理である、即ち、イエス様ご自身が真理である、と言うのです。そしてイエス様を通してでなければ、父なる神様のもとに行くことが出来ない、と言われているのです。このことをもう少し詳しく説明するためにイエス様は、その少し後の14章9節のところで、こうも言っておられます。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」イエス様を見たならば、それは父なる神様を見たのと同じである、と言うのです。これが、この真理の中身です。
もう一箇所、1章14節の御言葉を見ておきたいと思います。ヨハネによる福音書1章14節。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
ここで言う「真理」というのは、突き詰めて言うならば、「神様についての真理」と言い換えてもよいでしょう。神様がどんなお方であるかをはっきりと示す真理、これがここで「真理」と言われていることの中身です。キリストは言であるお方として、つまり私たちに語りかけて下さるお方として、ご自身のことを私たちに語りかけて下さる神様です。どうやって語りかけて下さるのかと言うと、この世にお生まれになる前から、自然を通し、あるいは旧約聖書の預言者を通して、永遠の神様として語りかけて下さいました。けれども、最後にイエス・キリストは、私たちが想像も出来ないような素晴らしい仕方で語りかけて下さったのです。「言葉は肉となった!」御子イエス・キリストは、神そのものであるお方であるにも関わらず、へりくだって、弱い人間の姿になり、十字架の道を歩まれて、最後には十字架に張り付けにされながら、神様はこういうお方なのだと、はっきりと示して下さったのです。
神様が罪を忌み嫌われることは、旧約聖書の中で、何度も繰り返し語られてきたことでした。しかし、どれぐらい罪を忌み嫌われるのかは、まだボンヤリとしていたのです。ところがイエス・キリストは、この罪のためには、たとえ独り子であっても見捨てなければならない、それほどまでに神様は罪を忌み嫌われるのだと、ご自身の十字架への生涯を通して、はっきりと表されたのです。また、神様が私たちのことをどれほど愛しておられるのか、ということについても、旧約聖書の預言者たちが、これまで一所懸命に語ってきたことでした。しかし、イエス・キリストは、最後に十字架の上で、その肉を裂き、血を流しながら、「これほどまでに神様はあなた方のことを愛しておられる!」と命懸けで表して下さったのです。今までボンヤリとしていた神様のお姿が、このイエス様のお姿を通して、本当に鮮やかに示されたのでした。このお方こそが真理であった、この真理があなたたちを自由にする、と言うのです。
この自由の中心は、先程も少し触れましたように、罪の奴隷からの自由です。これは、イエス様を信じたなら、もう罪を犯さない、ということではありません。クリスチャンになったからと言って、急に天使のように清くなれるわけではないのです。クリスチャンであっても、やはり罪は犯します。けれども、そういう弱い私たちを、神様は何度でも赦し、立ち上がらせて下さるのです。失敗しては立ち上がり、今度こそ大丈夫だと思っていても、また同じ失敗を繰り返してしまう。しかし、そこでまた打ち砕かれ、悔い改めて、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、また立ち上がっていく、これがクリスチャンの歩みではないかと思います。宗教改革者ルターは、クリスチャンの全生涯は悔い改めの連続である、と言いました。全くその通りです。神様は、そういう仕方で、私たちを少しずつ成長させて下さいます。神様は、一回や二回の失敗で、「もうお前の信仰は全部駄目だ!」とは言われません。失敗したことは全てイエス様の十字架によって赦して下さりながら、「私もあなたを罪に定めない!」と言って下さる。そして、「もう一度、悔い改めて新しく生きるように!行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない!」と励まして下さるのです。これがイエス・キリストを通して明かにされた神様のお姿であり、神様がどんなお方であるかを指し示す真理です。私たちは、この真理を知る時に、もうかつてのように逃げたり、ごまかしたりはしません。自分の罪をしっかりと見据えて、何度でも悔い改めるのです。そうやってイエス・キリストの十字架の赦しのもとに立ち続ける時に、もう私たちは、かつてのように罪の奴隷ではなくなります。勿論、一瞬のうちに清らかな人間になれるわけではないでしょう。けれども私たちは、この悔い改めの生活を通して、罪の縄目から自由にされ、少しずつ清められていくのです。