日曜朝の礼拝「わたしはある」

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わたしはある

日付
説教
吉田謙 牧師
58 はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』
ヨハネによる福音書 8章48節-59節

 この『わたしはある』という言葉は、旧約聖書では、神様のことを指し示すお言葉です。ですから「アブラハムが生まれる前からわたしはある」というのは、アブラハムが生まれる前から、私は存在しているというだけではなくて、「私はアブラハムが生まれる前から、旧約聖書が指し示す神そのものとして働いていたのだ!」という気持ちが込められている言葉です。

 旧約聖書で神様が『わたしはある』と名乗られる時に、それは主に、「どんなところにいても共にいる。わたしはある。ここだ!」という気持ちが込められていました。

 この『わたしはある』という言葉は、以前にもお話ししましたように、福音書記者ヨハネが好んで用いる言葉です。原文では「エゴー エイミー」と言う言葉です。この「エゴー」という言葉は、もう既に日本語にもなっていますから、皆さんも、よくご存じだと思います。あの人はエゴだ、エゴイストだ、というふうに「自己中心」という意味でよく用いられます。本来この「エゴー」という言葉は「私」という意味です。「エイミー」というのは「ある」という意味です。英語が分かる方には、これはBe動詞であると言った方が分かりやすいのかもしれません。英語で言うならば「エゴー・エイミー」は「I am」にあたります。

 この「エゴー エイミー」という言葉は、今日の箇所のように「エゴー エイミー」という言葉だけで出てくることもありますし、この「エゴー エイミー」の後に何かが付け加わって、「私は○○である」という言い方で出てくる場合もあります。例えば、8章12節のところには、「わたしは世の光である」という言葉がありました。これも「エゴー エイミー」の後に「世の光」という言葉が続く言葉です。その他にも「私は命のパンである」「私は良い羊飼いである」「私は復活であり、命である」「私はまことの葡萄の木である」「私は道であり、真理であり、命である」、ヨハネによる福音書には、こういう言葉が沢山登場します。これらは全て「エゴー エイミー○○」という言葉なのです。

イエス様は「エゴー エイミー」「わたしはある。どんなところにいても共にいる。ここだ!」と自己紹介できるお方です。けれども、ただそれだけではなくて、イエス様は、その「エゴー エイミー」の後に、色んな言葉を付け加えることの出来る救い主でした。イエス様は、私たちの魂にとって、今、何が必要であるかをちゃんとご存じであり、その時々に相応しい仕方で私たちに近づいて下さいます。ある時には命のパンとして、またある時には世の光として、またある時には、永遠の命に至る道として、私たちに近づいて下さるのです。イエス様は、そのようにして、「死」という人生最大の嵐の時にも、「わたしは復活であり、命である。このわたしが共にいる。私はここだ!」と語りかけて下さるのです。つまり、私たちがどこにいようと、どんなに絶望の中に沈んでいようと、イエス様はそこにいて下さいます。その全てに打ち勝たれたお方として私たちと共にいて、その絶望を担い、その時々に相応しい仕方で「わたしはある、ここだ!」と励まして下さるのです。

 礼拝の最初に、「招きの言葉」として139編をお読みしました。この詩編139編には、「わたしはある」と言われる神様が、いったいどういうお方であるかがよく言い表されています。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。」(詩編139:1-6)

 この詩人は、自分は神様から逃げている、と歌っています。けれども、同時にこの神様は、逃げ回っている自分を見放さないで、どこまでも追いかけてくる、と歌うのです。ここに、この詩人の神様に対する誠実な畏れと誠実な喜びがよく言い表されているのではないかと思います。この詩人は「自分のいっさいを知り尽くしておられる神様」の前に立ち、驚きと畏れの声を上げているのです。

 人間には、どうしても人には触れられたくない心の暗闇があります。たとえそれが家族であっても、絶対にこの部分だけは知られたくない、触れられたくない、人にはそれぞれそういう心の暗闇があると思います。そういうものを全部さらけだし、心の内側も、外側に現れてくる姿も、全く変わりない、隠れている部分が一切ない、おそらくそんな人は一人もいないでしょう。みんな多かれ少なかれ、隠しておきたい心の暗闇があり、偽善に生きざるを得ないのです。けれども、神様はそのことも全部ご存じです。私たちの心の奥底にある、人には知られたくない暗闇も、偽善に生きざるを得ない私たちの弱さも、全部ご存じであります。その上で、私たちの神様は、あるがままの私たちを受けとめて下さいます。この神様が、どこに行っても私たちを追いかけてくると言うのですから、これは本当は恵みなのです。自分の罪をどこまでも隠し通そうとするならば、この神様は、どこまでも追いかけてくるわけですから、本当に恐ろしい存在でありましょう。結局、今日の箇所に登場するユダヤ人たちは、そうやって「わたしはある」と、どこまでも追いかけてくるイエス様のお姿に反発を覚えたのではないかと思います。どこまでも罪を指摘するイエス様が鬱陶しくて、消えて欲しいと思った。そして、とうとう彼らは、イエス様を殺そうと石を握りしめたのでした。

 ところが、自分の罪を素直に認めて悔いている者にとって、この「わたしはある」というお方は、どんなに慰めに満ちていることでしょう。どんなに深い罪の嘆きの中にあっても、そこに届き、追いかけて来て下さいます。「あなたの罪は赦された!」と十字架の赦しの恵みを、どこに行っても届けて下さるのです。

 「御言葉を守る」「御言葉に留まる」、これは具体的には、自分の罪を素直に認めて、罪を悔い、イエス・キリストの十字架の赦しのもとに立ち続ける、ということでしょう。イエス・キリストの十字架の赦しの恵みを宝物のようにして懐に抱き、決して離さない、ということです。そのようにして私たちが生きる時に、私たちがどこにいようと、イエス様は永遠から永遠に至るまで私たちと共にいて、罪の赦しを届けて下さいます。そして、私たちのことを、いつまでも変わることなく、愛して、愛して、愛し抜いて下さるのです。ですから、もう私たちは、永遠に死を見ることがありません。

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