ひざまずく信仰
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- 説教
- 吉田謙 牧師
35 そして彼に出会うと「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話(はな)しているのが、その人だ。」38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、・・・
ヨハネによる福音書 9章35節-41節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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イエス様は道ばたで物乞いをしていた生まれつき目の見えない人の目を癒されました。ヨハネによる福音書は、この目が癒された人の魂の目が、どのようにして開いていったのかを、これまで9章の最初から順を追って語ってきました。そして、その一番最後に語られているのが、今日の箇所なのです。この人の肉体の目は、最初の奇跡で開きました。しかし、魂の目の方は、この人がイエス様の御前にひざまずいた時に最終的に開いたのだ、とヨハネは報告しているのです。これは本当に注目すべきことではないかと私は思います。これまで彼は、「あのイエスは罪人ではない!私を癒されたお方、神から遣わされたお方なのだ!」と証しの戦いをずっと続けてきたのです。結局、彼は会堂を追放されるまで、この証しをやめませんでした。本当に堂々とした態度です。「これこそ真の信仰者の姿である。彼の魂の目は、こうやって開いていったのだ!」と報告して終わってもよかったはずなのです。けれども、ヨハネが伝える最後の姿は、そうではありませんでした。「キリストの前にひれ伏し、ひざまずいた時に初めて、この人の魂の目は開いたのだ!」とヨハネは伝えたのです。魂の目が開くというのは、そういうことなんですね。これはとても大切なことではないかと私は思います。
私たち人間は、やはり自分の力だけでは、ひざまずくことなど出来ないのです。なんとかして立派であろうとする。ひざまずくのではなくて、自分がもてはやされたい。自分が中心でありたい。自分が主人公でありたいと思う。神様にひざまずくのではなくて、神様を自分の手中に収めたいと思うのです。これが罪の内に堕落した人間の現実ではないかと思います。結局、私たちは、自分の力だけでは、そういうところから抜け出すことが出来ないのです。そこから抜け出すためには、やはり神様の力が必要です。
私は、以前、会社勤めをしていた頃に、職場で倒れてしまい、突然死しかけたことがありました。その時から約半年間、私は今まで味わったことのないような本当に密度の濃い、神様との交わりの時が与えられました。倒れた直後に、不思議な導きで中国に行くことになりました。そこで私はいつ捕らえられるか分からない、捕らえられたならば生きて帰ってくることが出来るかどうかすらも分からない、そういう厳しい迫害の中にあっても、本当に生き生きと輝き、喜びに満ち溢れている中国のクリスチャンたちに出会うことが出来ました。彼らは、決して頑張っているわけではありません。もうギリギリのところに立たされていて、自分の力では頑張りようがないのです。神様の前で謙遜になり、ひざまずいて、全てをお任せするしかない。けれども彼らは、そんな中で本当に大きな平安と喜びと力を得ていたのです。会ってすぐに分かりました。もう全然違うのです。命そのものが輝いている。全身から喜びが満ち溢れているのです。「同じクリスチャンでありながら、どうしてこんなにも違うのだろうか?いったい自分は今まで何をしてきたのだろう!」私は、その時に本当に大きな衝撃を受けました。その後も、これでもかこれでもかという具合に、次から次へと本当に不思議な神様の御業を、私はまざまざと見せつけられました。その時に私は、「あー、神様は本当に生きて働いておられる!」と、今更ながら実感したのです。「神様、ごめんなさい。私は何にも分かっていませんでした!」もうその時に私は、神様の御前にひざまずくしかなかったのです。こうして私は、主に引きづられるようにして、主の御前にひざまずく経験をしたのでした。そして、この時に、私の魂の目は本当の意味で開かれたのだと思います。これは聖書を一所懸命勉強し、修行を積んで到達できることではありません。あくまでも神様の御業なのです。
この生まれつき目が見えなかった人の目が癒され、イエス様の御前にひざまずき、魂の目が開かれたということも、また私が突然死しかけたことを通して、神様の御前にひざまずき、魂の目が開かれたということも、本人が精進したからとか、立派だったからではありません。これは、あくまでも神様の導きとしか言いようがないのです。
それでは私たちは、神様の御業をただ指をくわえて待つことしか出来ないのでしょうか。決してそうではありません。これは神の霊、聖霊の御業ですから、私たちは、聖霊が最も生き生きと働かれる場所に身を置いておく必要があります。これが私たちにできる唯一のことではないかと思います。では、聖霊が最も生き生きと働かれる場所とは、いったいどこでしょうか。それは、私たちの信仰規準、ウエストミンスター小教理問答によると、この礼拝の場です。私たちに出来ることは、この礼拝の場に身を起き続けることなのです。私は、牧師になる前は、頑張り信仰で、誤った仕方で礼拝を捧げていました。神様の前にへりくだり、謙遜になって、ひざまずくような思いで信仰生活を送っていたわけではなかった。結局、私は中途半端な信仰にとどまり、多くのことを自分の力で頑張っていたのです。しかし、それでも、この礼拝の場には身を置き続けていました。ですから、礼拝の中で絶えず聖霊は私に働き、「やはり何かがおかしい!信仰の軸がぶれている!」という違和感を、ずっと私に与え続けて下さったのだと思います。だからこそ、死に直面した時に、心から悔い改めることが出来たのでした。もし私が礼拝から遠ざかり、聖霊が働かれる場所に身を置いていなかったならば、命拾いしても、「ラッキー!」で終わっていたのではないかと思います。決して牧師になろうなどとは思わなかったでしょう。
そういうわけで、この礼拝の時は、主の御前にひざまずく時であり、聖霊が豊かに働かれる時であり、決してなおざりにしてはならないのです。今はオンラインを併用しながらの礼拝ではありますが、オンラインの礼拝においても、聖霊は豊かに働かれます。実際に目に見える仕方でひざまずくことがなくても、座っていても、立っていても、心の中で主に対してひざまずくことが出来るはずなのです。