民のために死ぬキリスト
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- 説教
- 吉田謙 牧師
51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
ヨハネによる福音書 11章45節-57節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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これまで読み進めてきた11章には、イエス様が死んだラザロという弟子を生き返らせて下さった、という奇跡物語が記されていました。今日の物語は、このイエス様の奇跡が及ぼした波紋について伝えています。死んだラザロが生き返ったという驚くべき奇跡を目の当たりにして、大勢の人々がイエス様を信じるようになりました。そして、この知らせは、すぐに国会議員たちの耳にまで届いて行ったのです。そこで彼らは最高法院(今で言う国会のようなユダヤの最高議決機関)を開き、「このままイエスの人気が高まれば、やがて暴動に発展し、ユダヤの国はローマ帝国に滅ぼされてしまうかもしれない。そうならないうちに、何とかしなければ!」という議論を始めたのです。そこで、この最高法院の議長である大祭司カイアファが、「このイエスという男の人気が、これ以上加熱しない内に、彼を抹殺すればいい。そうすれば暴動も起こらないし、国民全体も滅びないですむ。指導者たちにとっても、これは好都合ではないか?!」と自らの判断を明らかにしたのでした。福音書記者ヨハネは、この大祭司カイアファの言葉を、このように解説したのです。51節。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。」
カイアファ自身は、自分の判断で発言したのです。「暴動を押しとどめるためには、中心人物を抹殺してしまえばよいではないか!」と。これは、いかにも政治家らしい発言です。しかしカイアファは、大祭司という宗教的にも最高の地位にいる人でした。大祭司は、本来、神様とイスラエルの間に立ち、執り成しをする人です。彼はそういう宗教的な立場に置かれている人間として、自分では気づかない内に、神様の御心を預言していた、とヨハネはここに注意書きを書いたのです。
ヨハネによると、このカイアファの発言は、イエス様の十字架の意義を的確に語っていました。「一人の人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないで済む!」これはイエス様の十字架のお姿そのものです。本当は私たち自身が、神様の怒りと呪いを身に受けて、死ななければならなかったのです。このことは自分自身の心の内側を正直に見つめるならば、あるいはこれまで歩んできた自分自身の人生を振り返るならば、よく分かることではないかと思います。私たちの歩みは、恥ずべき行いや恥ずべき言葉、恥ずべき思いで一杯です。もう弁解の余地などありません。本来、私たちは神様の怒りと呪いのもとで毎日怯えながら生き続けるしかなかったのです。そして、その一生を終える時には、神様の怒りのもとで滅びる他はなかった。ところが、神の御子イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、私たちの罪を全部背負って、あの十字架の上で死んで下さいました。本来私たち一人一人が受けなければならなかった神様の怒りと呪いを、独り子である神イエス・キリストが全部その身に引き受けて下さったのです。もう私たちに神様の怒りは向けられません。どんなに厳しい人生の嵐に出会ったとしても、それはもう神様に見捨てられた「しるし」ではないのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストが十字架の上で私たちの身代わりとなって死んで下さったからです。もう私たちは「滅び」という絶望的な死を味わう必要がありません。「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は決して誰も死なない。」この永遠に続く命は、このキリストの十字架によって始まったのです。そして大祭司カイアファは、結果的にその実現のために用いられたのでした。つまり、神様の御心に背き、神様のご計画に敵対しているかのように見える者たちの企みをも用いて、神様のご計画は着実に前進していったのです。ヨハネはここでそのことを伝えようとしています。
私たちの人生は、苦しみの連続で、まるでサタンに弄ばれているかのように思えることがあるのかもしれません。今、私たちは、コロナ禍にあって、一つに集まることが出来ないという、将に散らされた状態にあります。けれども、たとえ私たちには、絶望的に見えることであったとしても、そのことをも含めて、全て神様の御手の中にあるのです。人の目から見れば、回り道をしたり、迷ったり、つまずいたり、転んだりと、全く無駄な歩みをしているかのように思えるのかもしれません。けれども、本当はそうではないのです。たとえ回り道であっても、迷っても、つまずいても、転んでも、それにはちゃんと意味がある。そのことをも神様は御手の中でちゃんと治めておられるのです。
特に、この新しい年、私たちは、決して諦めることなく、この散らされた状態を、何とかして少しずつもとに戻していくために、様々な取り組みを模索していきたいと思います。けれども、そこで私たちが心しておかなければならないことは、その一番の決め手は、そういう私たちの様々な取り組みではなくて、このことのために既にイエス・キリストが十字架の上で死んで下さった、ということです。神の子らを一つに集めるために、御子イエス・キリストが既に死んで下さいました。私たちが一つであることの喜びをより一層深く味わい、なおこれからも完成へと向かって生き生きと歩み続けていくためには、このイエス・キリストの十字架の恵みに生かされることが一番大切なことなのです。
たとえ私たちの試みが失敗し、迷い、つまずき、転んだとしても、あるいはそのことのゆえに大きく回り道をすることになったとしても、大丈夫なのです。それらもすべて神様の御手の中にありますから、安心です。そのことを堅く信じ、まずは主の十字架の恵みを土台としながら、この年も諦めることなく、それぞれに与えられた賜物を用いつつ、一つになるための模索を精一杯していきたいと思います。