ろばの子に乗る救い主
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
14 次のように書いてあるとおりである。15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」 16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
ヨハネによる福音書 12章12節-19節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
今日の箇所には、イエス様が十字架にかかられる五日前に、エルサレムに入られた時の様子が伝えられています。時はユダヤの最大のお祭り、過ぎ越しの祭りの直前でした。エルサレムは各地からやってくる巡礼の人々でごった返していたのです。イエス様の救い主としての評判は、この時、最高潮に達していました。ですから、イエス様がエルサレムの都に入られた時には、ちょうど都に巡礼に来た人々をも巻き込んで、本当に大勢の群衆がイエス様を喜び、迎えたのです。
13節のところには、人々は「なつめやしの枝をもって迎えに出た」とあります。これは、戦争で勝った時の英雄を迎える迎え方です。戦争で勝った時には、凱旋パレードが行われ、凱旋将軍や凱旋の王様を人々は喜んで出迎えたのです。その際に人々は、なつめやしの枝をふって出迎えた、と言われています。つまりイエス様は、ユダヤの国を勝利に導く英雄のようなお方として、この時、エルサレムの都に迎え入れられたのでした。
ところが、どうでしょうか。当のイエス様はと言うと、ろばの子に乗って、とことことエルサレムに入って来られた、と言うのです。これはどう考えてみても格好いい姿とは言えません。凱旋の王様に相応しいのは、やはり軍馬でしょう。戦争には馬が使われましたから、当然、戦争に勝つ王様であるならば、よく訓練された馬に乗り、颯爽と現れるのが本来の姿なのです。けれども、イエス様は馬ではなくて、ろばの子に乗って、即ち戦いとは全く無縁のお姿でエルサレムにやって来られた、と言うのです。
ヨハネは、この出来事を「旧約聖書の預言の成就であった」と解説しています。あの時は皆が浮かれ騒いでいて、イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入られたことの意味など考えてもみなかったけれども、イエス様が栄光を受けられた後で、よくよく思い起こしてみると、あれは確かにあの預言者ゼカリアが預言していた救い主のお姿そのものであった、そのことがその時にようやく分かった、とヨハネは言うのです。
では、ここに預言されている「ろばに乗る王様」とは、いったいどういう王様でしょうか。ロバの特徴は、まずその背の低さにあります。馬に比べてロバは背が低いのです。逆に背の高い馬に乗った王様は、高い所から人々を見下ろす王様、力で人々を支配する王様を意味しています。しかし、来たるべき王様は、背の低いロバに乗り、私たちと同じ高さに立ってくださる王様です。上から目線で私たちを見下ろすのではなくて、私たちと同じ目線に立ち、私たちの友となって下さる王様。力ではなくて、愛によって私たちを治めてくださる王様なのです。第二に、足ののろさもロバの大事な特徴でしょう。それに対して馬は足が速いのです。王様が乗る馬というのは、その中でも一番足が速い馬なのだと思います。その王様に従うためには、自分もまた足の速い馬に乗っていなければなりません。王様についていくだけの力をもった者だけが、その王様に従うことができるのです。けれども、ロバに乗った王様は、歩みの遅い者、たとえば子供や婦人や老人、障害者といった力の弱い者と歩みを合わせて歩むことができる王様なのです。第三に、ロバは日常的な荷物や農作物を運ぶという平和の目的のために用いられます。それに対して馬に乗った王様は、敵を力でねじ伏せる王様です。しかし、たとえ武力によって制圧したとしても、そこには憎しみや恨みがずっと鬱積し続け、それがまた新たな紛争を引き起こすことになる。これは今の世界情勢を見ればよく分かることではないかと思います。馬に乗って戦をする王様は、決して平和をもたらすことはできません。
このように、「ろばに乗る王様」は、とても優しく、へりくだった平和をもたらす王様なのです。しかし、決して弱い王様ではありません。この王様は勝利した王様なのです。ゼカリアの預言には、このろばに乗った王様が、世界中を支配した後も、まだその支配下にある者たちを圧迫し、無理強いして従わせるために馬に乗ってやって来られるのではなくて、全ての人を支配した後は、本当に優しいお方となり、ろばに乗ってやって来られる、と言われているのです。そういうわけで、人々がイエス様をなつめやしの枝を振りながら勝利した王様として迎えた時に、人々は気づかない内に預言通りの迎え方をしていたのでした。
今日の箇所で、ヨハネが私たちに一番伝えたかったことは、やはり私たちも今日の箇所に登場する群衆のように、イエス様を勝利者として心に迎えて欲しい、ということではないでしょうか。目の前の困難な現実を前にして、私たちは、自分の弱さや愚かさ、その罪に気づかされ、呆然と立ち尽くしてしまうことがあります。でも大丈夫なのです。十字架の死を突き抜けて、死に勝利されたイエス・キリストが、どんな暗闇の中にあっても私たちと共にいて下さいます。たとえ私たちが弱くても、イエス・キリストは罪と死に打ち勝たれた強いお方です。私たちは愚かで、何も知りません。しかしイエス・キリストは賢く、すべてを知り尽くしておられます。私たちの愛は欠けだらけです。しかしイエス・キリストは愛に満ちておられます。私たちを決して見捨てることなく、十字架の愛で、永遠に愛し続けて下さるのです。たとえ厳しい現実に打ちのめされたとしても、私たちがこの勝利者イエス・キリストの御手の中にあるならば、何を心配する必要があるでしょうか。
イエス様は、この福音書のもう少し後のところで、こうも言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネによる福音書16章33節の御言葉です。「この世にある限り、あなた方には様々な苦難があることだろう。時には信仰が崩れそうになることもあるかもしれない。しかし、勇気を出しなさい。私はあなた方に代わって、それら全てに打ち勝った。恐れに打ち勝ち、サタンの誘惑に打ち勝ち、罪と死の力に打ち勝った。あなたが頑張るのではない。私が支える。私が守る。私が共にいる。どんなことがあろうと、私は決してあなたを見捨てない!」このように主は私たちを励まして下さるのです。たとえ私たちが力弱く、愚かで、目の前の疫病や災害、戦争という厳しい現実に全く太刀打ちができなかったとしても、この勝利者イエス・キリストを心にお迎えし、これからも決して諦めることなく、希望をもって主と共に歩んでいきたいと思います。