主イエスの伝道
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- 吉田謙 牧師
37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。40 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
ヨハネによる福音書 12章36節-43
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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ヨハネは、今までのイエス様の公の宣教活動を37節のところで要約し、「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」と報告しています。その上でヨハネは、このイエス様の伝道の不成功について、一つの解説をしました。預言者イザヤの言葉を引用しながら、38節のところでこう言っているのです。「主よだれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
これは、あの有名なイザヤ書53章1節の御言葉です。預言者イザヤに示された預言は、本当に信じられないような預言でした。やがて救い主が颯爽と現れて、憎き敵を討ち滅ぼしていく、という預言ではありません。イザヤが預言した救い主は、人々に軽蔑され、見捨てられ、ついには殺されてしまう救い主です。
こんな救い主を誰が信じることが出来たでしょうか。外側から見る限りは、伝道に失敗した惨めな負け犬でしかありません。けれども、神様のご計画は、この救い主によって私たちを救うことだったのです。私たちは、伝道が不成功に終わる時に、ただただ嘆くことしかできません。ところが、ヨハネは、「それも預言の成就であり、神様のご計画が挫折しているのではない!」と言うのです。
このことを更にはっきりと示すために、ヨハネは40節のところで、もう一度イザヤの言葉を引用します。40節。「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
これは旧約聖書のイザヤ書6章10節以下の引用です。伝道が不成功の時、伝道がうまくいかない時に、それは神様が手も足も出なくて、ただただ立ちすくんでおられるわけではありません。そうではなくて、その時にも神様は、人の心を頑なにするという本当に不思議な仕方で働いておられるのだ、とヨハネは言うのです。
イエス様が人々の前で驚くべき御業をなさり、素晴らしい説教を語られたにもかかわらず、結局、人々は信じようとしませんでした。それでは、イエス様のこれまでの活動は全て無意味だったのでしょうか。決してそうではありません。実は、これも全て神様の御心によることであり、このことを通して、神様の救いのご計画は着実に進展していったのです。つまり、人々がイエス様の驚くべき御業を目の当たりにし、感動的な説教聞いても、結局、信じることが出来なかったのは、決して無意味なことではなかったのです。何故ならば、このことの延長線上に、あのイエス・キリストの十字架の死があったからです。イエス様は、最初から、あのイザヤ書53章の「苦難の僕」として歩み通すために、神様からこの世に遣わされ、十字架への道行きを歩み通されたのでした。ヨハネはそのことを、このイザヤ書の預言に基づいて語ろうとしているのです。
私たちは、この伝道の不成功を考える時に、初代教会がこのような不成功を繰り返し味わいながらも、ついには世界全体に福音を広めていったことを思い起こさねばなりません。伝道の不成功は、決して無意味ではなかったのです。この不成功を糧にしながら、やがて豊かな実を結んでいったのでした。
以前学んだ12章24節のところでイエス様は、ご自分が一粒の麦として死んだ後で豊かな実を結ぶ、と教えられました。確かに伝道の不成功は12章までの結論です。しかし、これは最終的な結論ではありません。イエス様が一粒の麦として死なれた時に、本当に豊かな実りが与えられたのです。
伝道はあくまでも神様の御業です。私たちは、神様に遣わされて、神様の御業に用いていただくのです。ただそれだけのことです。伝道の成功、不成功は、決して私たちの頑張りにかかっているのではありません。ですから私たちは、もっと肩の力を抜いて、自分に出来る精一杯のことをし、後は神様にお任せすればよいのです。神様は、私たちの思いを遙かに超えた素晴らしいご計画をもっておられます。もしかすると、それは私たちが生きている間に、目に見える仕方で、結果としては現れてこないのかもしれません。現に、この世で一生懸命、家族や友人に仕え、伝道したにも関わらず、結局、自分が生きている間には、目に見える仕方で実りを見ることが出来なかったということは、よくあることです。けれども、熱心に誘い続けてきたその人が亡くなった時に、初めて目が覚めて教会に来るようになり、やがて救われたという話は、案外よく聞くのではないでしょうか。私は、そういう例を実際に幾つも知っています。私たちは、自分の目で実りを見たいと願います。しかし、いつもいつもそれがかなうわけではありません。私たちの伝道は、結局、不成功だった、と思えることが多いのです。けれども私たちは、たとえ目に見える成功が与えられなくても、失望することなく、一粒の麦として、証し人の生涯を全うすることは出来ます。神様は、きっと最終的な結論としては、「あぁ、本当に良かった!」と思えるような結論を用意しておられることでしょう。そのことを信じ、諦めることなく、愛する家族に対して、あるいは親しい友人に対して、証し人としての人生を全うしたいと思います。