弟子の足を洗うキリスト
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- 説教
- 吉田謙 牧師
3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。・・・ 8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」
ヨハネによる福音書 13章1節-11節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日からしばらくの間、私たちは、イエス様が十字架にかかられる前日の夜の出来事、即ち後に「最後の晩餐」と呼ばれるようになった食事の席での出来事を学ぶことになります。今日はその「最後の晩餐」の最初の場面、イエス様が弟子たちの足を洗われた物語を学びます。
弟子たちが晩餐の席についていた時に、イエス様は急に席を立ち、上着を脱いで、腰に手ぬぐいを巻かれました。いったい何がおこるのだろうか、と弟子たちが息をのんで注目していたところ、イエス様はたらいに水をくみ、こともあろうに弟子たちの足を一人一人丁寧に洗い始められた、と言うのです。弟子たちはもうビックリしたと思います。弟子のペトロは、遠慮がちに「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と尋ねました。するとイエス様は、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)と答えられたのです。ヨハネによる福音書が「後になったら分かる」という時には、それは、大抵の場合、イエス様が十字架にかかり、三日目に甦られて、弟子たちに聖霊が降った後で分かる、ということです。ですから、この「イエス様が弟子たちの足を洗う」行為は、当時の常識を遙かに越えた「謙遜の模範」であった、というだけのことではありません。そこには、もっと深い意味が込められていたのです。では、その深い意味とは、いったいどういう意味でしょうか。
泥だらけの足を洗う。その目的は、当然、汚れを落とすことでしょう。そして、それは同時に十字架の意味をもよく表していたのです。私たちは罪に汚れています。イエス様の十字架は、その私たちの罪を洗い流すためにあったのです。水で泥だらけの足を洗い流す行為は、このイエス様の十字架による罪の贖い、罪の洗いを象徴的に表したものでした。そして、この象徴的行為は、少し形を変えて今でも教会の中で執り行われています。それは、クリスチャンになろうと決心した時に行われる儀式、洗礼式です。今日の物語は、後の時代の教会の人々が読んだ時に、この洗礼式のことを思い起こすことが出来るようにヨハネは書いたのです。洗礼も水で洗います。そこで象徴されていることも同じです。私たちの教派では、洗礼式の際に、クリスチャンになろうと決心した者の頭に水が注がれます。それは、その人の罪がイエス・キリストの十字架の贖いによって全部洗い流されたことを象徴的に表しているのです。
今日、私たちは、この御言葉から二つのことを心に刻みたいと思います。一つ目は「全身は清い」ということです。洗礼を受けた後にも私たちは、数々の罪を犯します。そして、しばしば「こんな自分ではいくら何でも駄目ではないか?!神様に見捨てられてしまうかもしれない!」と心細くなり、自分で自分のことが嫌になってしまうのです。けれども、本当はそうではありません。既に体を洗った者は全身が清い、と主は言われました。神様は、そういう私たちを完全に赦し、罪のない清い人間として受け入れ、いつも愛して下さいます。イエス様の十字架の贖いは、もうそれだけで完全であり、十分なのです。他に何も付け加える必要はありません。私たちが救われるために、頑張って良い行いを積み上げたり、自分の力で清くなることが求められているのではありません。私たちの現在、過去、未来の罪は、イエス様の十字架の血潮によって全部洗い流されました。そういうわけで私たちは、もう全身が清いのです。私たちは、このことを決して忘れてはならないと思います。
もう一つのことは「足を洗わなければならない」ということです。日々、罪赦されて生きることが、クリスチャンにはどうしても必要なのです。イエス様はペトロに対して、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」と警告なさいました。洗礼を受けた私たちが、毎日の自分の罪を認めようとせず、イエス様によって足を洗っていただこうとしないならば、私たちはイエス様とかかわりがない者になってしまうのです。これは、私たちが本当に心しなければならない警告ではないかと思います。
ペトロは、イエス様から「私と何のかかわりもなくなる」と言われた時には、大あわてしたにも関わらず、この後、イエス様の立場がちょっと悪くなると、「あんな男は知らない。私とは何の関わりもない!」と三度もうそぶいてしまうのです。ペトロは、そうやってイエス様のことを十字架へと追いやってしまったのでした。イエス様は、そういうペトロのことをちゃんとご存じでした。いやむしろご存じであったからこそ、その罪にまみれた足を見て、もういたたまれなくなり、その足を洗って下さったのです。自らの命をすべて注ぎ込むような、この上もない愛で、弟子たち一人一人を愛し抜いて下さったのでした。これがイエス様の十字架の愛です。ここにしか私たちの立つべきところはありません。ここ以外に私たちの救いはないのです。遠慮することなく、大手を振って、イエス様に日毎の罪を言い表しましょう。明らかにされた罪だけではなく、隠れた罪をも、「どうか赦して下さい!」と日毎に祈り求めたいと思います。そのようにして罪にまみれた私たちの足を、日毎にイエス様によって洗い流していただきたいと思います。