日曜朝の礼拝「暗闇に打ち勝つために」

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暗闇に打ち勝つために

日付
説教
吉田謙 牧師
27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。・・・ 30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
ヨハネによる福音書 13章21節-30節

 今日の箇所には、弟子のユダの裏切りの物語が記されています。30節のところには、ユダが裏切る決心をし、食事の席を立ち、出て行った時に、わざわざ「夜であった」と言われています。13章の初めのところで、既に「夕食時であった」と言われていましたから、ここでまた「これは夜の出来事であった」とあえて言う必要はなかったと思います。おそらく、これはヨハネによる福音書特有の象徴的な言い回しでしょう。イエス様の愛の交わりから出て行くことは、夜の暗闇の中に出ていくようなものなのだ、とヨハネは言いたいのです。

 では、イエス様を信じ、イエス様と共に歩むならば、光に包まれ、暗闇は一切なくなるのでしょうか。決してそうではありません。ヨハネはその現実をも、しっかりと見据えていました。ヨハネによる福音書1章5節には、こう言われていたのです。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」この「暗闇は光を理解しなかった」という言葉は、以前にも説明しましたように、前の口語訳聖書では、「暗闇は光に勝たなかった」と翻訳されていました。私は、この箇所に関しては、前の口語訳聖書の翻訳の方がよかったと思います。現に、最近、発行された聖書協会共同訳聖書では、「闇は光に勝たなかった」という翻訳に戻っています。ヨハネは、この福音書の最初のところで、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光に打ち勝たなかった」と言ったのです。

 このヨハネによる福音書は紀元90年代の後半に書かれた、と言われています。紀元90年代の後半というと、ローマ帝国がキリスト教を本格的に迫害していた時代です。既に多くの弟子たちが、殉教の死を遂げていました。ヨハネの時代は、将に先行きの見えない暗闇の時代でした。けれども、「どんなに暗闇が差し迫ってきたとしても、暗闇はその光を打ち消すことが出来なかった!暗闇の中で光は輝いている!」これがヨハネの実感だったのです。

 「暗闇は光に打ち勝たなかった!」「暗闇の中で光は輝いている!」このヨハネの報告を、私たちもしっかりと受けとめたいと思います。そして、たとえ闇が力をふるう時であっても、決して諦めることなく、希望をもって光の中を歩んでいきたいと思います。

このユダの裏切りの物語を読む時に、私たちは色んな疑問を抱くのではないかと思います。「イエス様がユダの裏切りを知っておられたのなら、何故、強引に引き止めようとなさらなかったのか?」「何故、ユダが罪を犯すのを黙って見過ごされたのか?!」と。実際に、そういうことをテーマにした小説が、以前、ドイツでベストセラーになったそうです。ドイツのある神学者が書いた「ユダの弁護人」という小説です。その小説は、「ユダがキリストを律法学者や祭司長に引き渡さなかったなら、キリストは十字架に架からなかったはずだ。キリストが十字架に架からなかったなら、神の救済計画も実現しなかったことになる。だから、ユダは神の救済計画に貢献したのだ。当然、聖人の列に加えられるべきではないか?!」と。私たちは、この問題をどのように考えればよいでしょうか。

 もし、私たちが神様の定められた計画の中で、まるでロボットのように決められたことだけをしているのなら、私たちには全く自由がありませんし、この小説が主張しているように私たちにはその責任もないでしょう。けれども、果たしてそうでしょうか。私たちは、神様の思い通りに動いているロボットや操り人形でしょうか。決してそうではありません。私たちは全く自分の自由な意志で行動しています。神様に従うことも、神様を裏切ることも全く自由です。しかし、それは神様の知らないところで起こっていることではなくて、神様の御手の中で起こっています。神様が知らないことは何一つない。これが聖書の教える人間理解です。私たちは、全く自由に生きているので、むしろ神様の御手の中で生かされていることの方を忘れがちではないかと思います。本当は、そのことの方がもっと深刻な問題でしょう。けれども、そのことに気づかない程に、私たちは全く自由な存在です。つまり、裏切ったユダには確かにユダの主体的な意志があり、その責任も当然ユダにあった、ということです。たとえ結果的にはイエス様の十字架への道備えとなったとしても、ユダの裏切りは大きな罪です。裁かれなければならない。けれども、それと同時に、そのようなユダの裏切り、サタンの仕業をも用いて、神様の救いのご計画が着実に進んでいった、ということをも私たちはしっかりと覚えておかなければなりません。サタンの企てさえも、全部、神様のご計画の中にあるのです。

私たちの人生は、苦しみの連続で、サタンに弄ばれているかのように思えることがあるのかもしれません。けれども、たとえ私たちにはそのように見えたとしても、そのことをも含めて、全部神様の御手の中にあるのです。人の目から見れば、回り道をしたり、迷ったり、つまずいたり、転んだりと、全く無駄な歩みをしているかのように思えるのかもしれません。けれども、本当はそうではないのです。たとえ回り道であっても、迷っても、つまずいても、転んでも、それにはちゃんと意味がある。そのことをも神様は御手の中でちゃんと治めておられるのです。そのことを信じ、たとえ暗闇に支配されているかのように思える時であっても、くよくよせずに、主に信頼しつつ、それぞれの人生を最後までしっかりと歩み通したいと思います。

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