互いに愛し合いなさい
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネによる福音書 13章31節-35節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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「互いに愛し合いなさい!」これはイエス様が語られるよりも、ずっと以前から語られてきた掟です。旧約の時代にも、この掟は教えられていました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19章18節)。
このように「互いに愛し合いなさい!」という掟は、何も新しい掟ではなかったのです。むしろ、これは古くから教えられてきた手垢の付いた教えでした。にもかかわらずイエス様は、これが新しい掟なのだ、と言われたのです。何故でしょうか。この掟の新しさは、「わたしがあなた方を愛したように」とイエス様が言われた点にあります。イエス様の愛に基づいて、この古い掟が語り直されたのです。
イエス様の愛は、一言で言うならば「十字架に至る愛」と言い換えることが出来るでしょう。今日のイエス様のお言葉は、イエス様が十字架にかかられる前の夜に、弟子たちに語られたものでした。イエス様は、明日にはもうこの弟子たちのために、ご自分の命を差し出されるのです。将に命がけの愛でありましょう。この命がけの十字架の愛で弟子たちのことを愛されながら、イエス様は「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と教えられたのです。そういうわけで、この古い掟は、イエス様の十字架の愛によって全く新しい掟となりました。つまり、これはイエス様の愛に促されて、私たちも互いに命懸けで愛し合うように、という掟なのです。勿論、私たちには、イエス様と同じように愛することは出来ません。この「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉は、原文では一度限り決定的に起こったこととして語られています。それに対して「互いに愛し合いなさい」という言葉は、何度でも継続的に行われることとして語られているのです。ですから、これは文字通り、イエス様が十字架に命を捨てて下さったように、あなた方も互いに、この同じ愛で愛し合いなさい、ということではありません。しかし同時にこれは、イエス様の十字架の愛とは全く別ものの薄っぺらな愛で互いに愛し合いなさい、ということでもない。要するにこれは、イエス様の十字架の愛に相当する同じ種類の愛で互いに愛し合いなさい、ということではないかと思います。
これは、私たちにとって、とてもハードルが高い、とんでもない要求ではないかと思います。しかも、既にお気づきのことと思いますが、この「互いに愛し合いなさい」と言われている、「互いに」が意味しているのは、親子でもなければ、友人関係でもありません。それは、この最後の晩餐の席に座っていた弟子たち同士のことなのです。これは、今で言うならば、教会のお互い同士ということになるでしょう。
私たちは、家族や友人以外の人々のことを、どのように見ているでしょうか。人を見る時に私たちは、何らかの要求をもってその人のことを見ていることが多いのではないかと思います。この人は、私に何を与えてくれるのだろうか、私が望んでいるものを、この人は与えてくれるのだろうか、と。そして、その要求が満たされない時に、私たちはしばしば苛立ち、怒りがこみ上げてくるのです。そうやってお互いに、どこまでも自分の主張を押し通そうとする時に、その人間関係は次第に壊れてしまい、やがては争いに発展してしまうのではないかと思います。もし、教会の一人一人が、そのような思いで相(あい)対(たい)しているならば、決して「互いに愛し合う」ことなど出来ません。
ではイエス様は、私たちに到底実現不可能な無理難題を押しつけられたのでしょうか。決してそうではありません。イエス様が命じられる時にはいつでもそうなのですが、私たちが頑張るのではなくて、イエス様が責任をもって私たち一人一人を導いて下さいます。私たちが互いに愛し合うことが出来るように、イエス様が私たち一人一人を、忍耐強く造り変えて下さるのです。
弟子たちは、イエス様によって集められました。イエス様は、あえて互いに異なる人々を集められたのです。そこには漁師もいれば、徴税人もいれば、熱心党出身者もいました。互いに違えば違うほど、反発する機会も多くなるでしょう。最初の内は、全く違う者同士ですから、互いに自分の主張を押し通そうと躍起になり、欲求不満と怒りと争いが絶えなかったのではないかと思います。しかし、全く違う者同士ということは、逆に言えば、相手にはないものを与える機会も多くなる、ということです。また仕える機会も多くなり、赦し合う機会も多くなる、ということでしょう。弟子たちは、イエス・キリストの十字架の愛に包まれる中で、少しずつ造り変えられていきました。そんな中で弟子たちは、互いに要求し合うのではなくて、互いに違っているからこそ、互いの欠けは補い合い、支え合い、仕え合い、赦し合っていったのでした。こうして「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉が、目に見える形で少しずつ実現していったのです。そして、このことの決め手は、やはりイエス・キリストの十字架の愛でした。このイエス・キリストの十字架の愛は、何もあの十字架の時だけに表されたわけではありません。イエス・キリストは、人々の悲しい訴えに耳を傾け、病を癒し、魂を癒し、悲しみから立ち上がらせて下さいました。そうやって主のまわりにいる人たちを、溢れんばかりの愛で包み込んで下さったのです。そして、その常日頃のイエス様の愛がどんなに深い愛であるかが、あの十字架の時に明らかにされたのでした。弟子たちは、このイエス様の十字架の愛に、日々、すっぽりと包まれる中で、少しずつ造り変えられていったのです。そして、あのイエス・キリストの十字架と復活、昇天、聖霊降臨の出来事の後で、彼らは決定的に変えられていったのでした。
イエス・キリストの十字架の愛によって、人は必ず変えられていきます。驚くほどに変えられていくのです。そして一人の人が変われば、必ず周りの人たちも変わっていきます。そうやってキリストの教会は、イエス・キリストの十字架の愛の波紋が少しずつ周りに広がっていくことによって、互いに愛し合う共同体として、着実に成長していったのです。