もっと大きい業
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
ヨハネによる福音書 14章12節-14節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」イエス様は、今日の箇所でこのように約束して下さいました。まるで夢のような約束ですね。私たちは、しばしば、自分の働きを振り返り、「こんなちっぽけなことしか自分には出来ないのか?!」と情けなくなることがあります。ところがイエス様は、「わたしを信じるならば、その人はわたしと同じ働きをし、またそれ以上の働きをすることになるだろう!」と教えられたのです
では、ここで言う「イエス様と同じ業」とは、いったいどういう業のことを言うのでしょうか。今日の御言葉の少し前のところで、イエス様はこのように言われていました。9節の中頃。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」そして、それに続けて10節の最後のところで、「わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」と言われていたのです。つまり、イエス様がなさる業は、父なる神様がイエス様の内側でなさっておられる業なので、イエス様の業を見れば、神様が見えてくる、と言われていたのです。そして11節の一番最後のところで、「業そのものによって私を信じなさい」とイエス様は言われたのでした。
実際に私たちは、イエス様がなさった業を見て、神様はこんなお方なのかと今まで教えられてきたのではないかと思います。イエス様はカナという村の婚礼で、葡萄酒がなくなった時に、水を葡萄酒に変えて下さいました。それは神様が私たちに、尽きることのない恵みを与えて下さるお方であることを示す一つの「しるし」でした。またイエス様は、五千人の人々が飢えている時に、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々のお腹を満腹にして下さいました。これは神様が、私たちの飢え渇く魂を満たして下さるお方であることの一つの「しるし」だったのです。イエス様は様々な病気の人々を癒し、死人を生き返らせて下さいました。それは神様が私たちのどのような悲しみであっても、慰めを与えて下さることの一つの「しるし」でした。イエス様は町で評判の罪人たちを食卓に招かれ、一緒に食事をなさいました。それは神様が、どんなに取り返しのつかないような失敗をした人であっても、決して見捨てることなく、ご自分のもとに招いて下さることの一つの「しるし」だったのです。このように、神様がどんなお方であるかはイエス様がなさった業を見れば分かるのです。
イエス様は神様の独り子ですから、私たちの業とイエス様の業とが全く同じであるはずがありません。けれども、私たちの業を通して、神様がどんなお方であるかがあらわれる。この点でイエス様の業と私たちの業は同じなのです。「『私を見たなら神様がどんなお方であるかが分かる!』そう言えるような業を、あなた方も行うことが出来る!」このようにイエス様はここで約束して下さったのでした。
以前、改革派教会のある信徒が亡くなられて、記念文集が発行されました。その文集の題は「神の愛、我らにあらわれたり」という題でした。文集の中身もよかったのですが、この題がとても印象的で、何十年経った今でもこの文集は私の心に残っています。「神の愛、我らにあらわれたり!」これは、一人のクリスチャンが天に召された後で、その人の一生涯を振り返るならば、誰でも言える言葉ではないかと思います。「神の愛、我らにあらわれたり!」たとえ奉仕する力が小さくても、力がないままに、その力のない者をも愛して下さる、その神様の恵みの中で喜んで生きるならば、やはり「神の愛、我らにあらわれたり!」と私たちは言うことが出来るのです。取り返しのつかないような大きな失敗をし、人生を棒に振ってしまったかのような人が、神様によって全てを赦され、新しく生き始めて、その一生を終えたならば、その人も、その生涯を振り返り、同じことを言うことが出来るでしょう。「神の愛、我らにあらわれたり!」と。神様の愛があらわれる。神様がどんなお方であるかをあらわす。この業は、イエス様から私たちに引き継がれました。私たちも、イエス様と同じ業をするのです。私を通して働いて下さる神様が、どんなに豊かで、憐れみ深く、愛に満ちておられるお方であるかをあらわすのです。これが私たちの務めであり、また喜びであり、願いではないかと思います。「私を信じる者は、私の業を行う!」これは、そういう意味なのです。
今、クリスチャン人口は全世界で22億5千人を越えていて、世界の歴史の中で、今ほどクリスチャン人口が多い時代はありません。日本だけを見ていると、なかなかそうは思えませんが、世界全体を見渡すならば、実はそうなのです。イエス様が地上で活躍なさった時には、まだほんの一握りの人たちしかイエス様を信じていませんでした。しかし、今、イエス様は天に帰られ、イエス様が地上におられた時よりも遙かに優れた業を、私たちを通して実行しておられます。そういうわけで、私たちの業は、天におられるイエス様の業であり、私たちにも、「もっと大きな業」を行うことが出来る、と言われているのです。
もう私ぐらいの年齢になると、誰でもそうだと思いますが、人生の中で取り返しのつかないことを沢山してきたのではないかと思います。もう一度人生をやり直すことが出来るならば、あんなことは語らなかったのに、とか、あんな行動はとらなかったのに、という具合に、色んなことを思い起こすことが出来るのだと思います。けれども、感謝なことに、私たちの人生はそういうやり直したい過去をも含めて、全部キリストの恵みのもとにあるのです。立派な姿だけではなくて、失敗も傷も恥も汚(けが)れも、それら全部がキリストの恵みのもとでは神様の素晴らしさをあらわす証しとなる。これがクリスチャンの人生ではないかと思います。
私には、多くの弱さがあり、沢山の罪がこびり付いています。私は、牧師だからと言って、それらをあえて隠そうとは思いません。勿論、それによって皆さんの躓きになるようなことは出来るだけ避けなければならないと思っています。しかし自分はこういう弱さをもっていながらも、なお神様によって支えられ、今も牧師として立つことが出来ている、このように正直に語ることの方がよほど福音的ではないか、と私は思っています。たとえ失敗であっても、恥であっても、それを語ることが出来る。傷がついてしまった自分を隠さなくてよい。これは本当に大きな恵みではないかと思います。