友なるイエス
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。・・・15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
ヨハネによる福音書 15章9節-17節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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13節のところでイエス様は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない!」と言われました。そしてその後で、「私はあなた方を友と呼ぶ」と言って下さったのです。そして続く16節のところでは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ!」とも言われました。イエス様は、私たちがひつこく迫るので、仕方なく私たちを愛して下さったのではなくて、むしろイエス様の方から積極的に私たちを選んで愛して下さった、と言うのです。これは本当に嬉しいことではないかと思います。
この御言葉が語られたのは、イエス様が十字架に死なれる前の夜のことでした。明日は、ここに座っている一人一人のために自分は命を捨てなければならない。そのことを思いながら、イエス様は「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私はあなた方を友と呼び、その最高の愛であなた方を愛する!」と教えられたのでした。イエス様は、こういう仕方で私たちの最高の友となって下さったのです。
私たちは罪人です。本当はイエス様から選ばれるような人間ではありません。普通、選ぶというのは良い方を選ぶものでしょう。ところがイエス様の選び方は、そうではありませんでした。イエス様が選んで友として下さったのは罪人です。罪人の私たちを、「この一人を選ぶ。この一人が本当に大切なのだ!」と主は私たち一人一人を選んで下さったのです。
また15節後半には、こうも言われています。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」イエス様は、ただ選ぶだけではなくて、選んだ友に対して語りかけて下さるお方なのです。
友は、やはり大きな影響力をもっていると思います。悪い友達をもつと、悪い遊びを覚え、徐々に悪の道へと引きずり込まれていきます。逆に良い友達をもつと、良い刺激を受けて励みになることがある。イエス様が友として交わって下さる時に、やはり私たちはイエス様の影響を少しずつ受けていくのではないかと思います。イエス様と交わり、イエス様の語りかけをいつも聞いている人は、やはりイエス様の影響を受けて、イエス様に似る者へと少しずつ造り変えられていくのです。
父なる神様が語っておられる事柄を、イエス様は日毎に私たちに語りかけて下さいます。「私はあなたを愛しているし、私の父である神もあなたを愛しておられる。あなたは私の友であり、しかも私の命を賭けるほどの真実の友なのだ!」私たちが祈る時に、あるいはこの礼拝に集う時に、あるいは日毎に聖書を読む時に、イエス様はこのように語りかけて下さるのです。私たちが、自分の至らなさに嫌気がさし、腐っている時に、「私はあなたを選んだ。私はあなたの友なのだ!」と言って下さいます。私たちが恥ずべき失態を繰り返し、心の汚れに気づき、自分を責めたてている時にも、「それでもあなたは私の友である。私があなたの罪を十字架の上で全部担った。だから、あなたの罪は赦されている。安心して行きなさい!」と促して下さるのです。喜びの日も悲しみの日も、罪に悩んでいる日も、罪に気づかない日も、イエス様は常に私たちに寄り添い、語りかけ、交わって下さいます。そうやって私たちは、少しずつイエス様の人格的な影響を受け、イエス様そっくりの人間に造り替えられていくのです。ですから、「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい!」というこの言葉は、嫌々従わなければならない命令の言葉ではありません。そうではなくて、むしろこの言葉は、「あなた方も互いに愛し合うようになる!」というイエス様の約束の言葉ではないかと私は思います。「私としっかりと繋がり、私の言葉にとどまっているならば、あなた方も私と同じように互いに愛し合うようになる!」こういう約束の言葉です。そして、この「互いに愛し合う」ことこそが、このぶどうの枝が結ぶ実りなのです。
またイエス様は「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように、わたしがあなたがたを任命する」と言われました。この後、弟子たちは、世界の各地に出かけて行き、伝道の実を結ばせることになります。では、その伝道の実が残る実であるためには、どうすればよいのでしょうか。それは弟子たちが出かけて行って建てあげる教会が、イエス様の愛に感動し、その愛に促されて、自分たちも互いに愛し合う教会になる、ということでしょう。そういう仕方で実を結ぶ時に、その実は残るのです。
以前、ある人から聞いた話ですが、アメリカに二人の素晴らしい牧師がいたそうです。二人とも素晴らしい説教を語り、その二つの教会には続々と人々が集まって来たそうです。そして、その二つの教会は瞬く間に何千人規模の教会にまで成長していきました。やがて時が過ぎ、二人とも牧師を引退されました。それから十年後、一つの教会は、あっという間に、その教会から人がいなくなってしまった、と言います。しかし、もう一つの教会は、以前と同じように、いやそれ以上に成長し続けたそうです。その二つの教会の様子を見て、ある専門家が、どこに違いがあったのかを詳しく分析しました。その分析によると、その主な原因は、どうも後任牧師の良し悪しではなかったようです。一つの教会は、牧師が本当に尊敬され、愛され、敬われて、そこに人々が続々と集まってきました。しかし、ただそれだけだったのです。もう一つの教会は、その牧師の説教を通して、教会の中に互いに愛し合う交わりが生まれていきました。沢山の小さなグループが出来ました。色んな悩みを抱え、アルコール依存症になってしまった人たち、マリファナに溺れてしまった人たち、そういう人たちが、それぞれに小さなグループをつくっていったのです。「未亡人の会」や「育児を考える会」等々色んなグループが出来ていきました。そして、みんながそれぞれのグループの中で自分たちの悩みを打ち明け合い、互いに祈り合っていた、と言うのです。カリスマ的な牧師がいた時には、両方とも急成長したのですが、残る実は違っていました。互いに愛し合う教会に成長していなければ、それは残る実とはならなかったのです。私たちの教会も、イエス様のお言葉にとどまり、イエス様の人格的な影響を少しずつ受けながら、互いに愛し合う教会に成長していきたいと思います。