勇気を出しなさい
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
ヨハネによる福音書 16章25節-33節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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これは、もうすぐ起こる十字架の出来事を指し示しているお言葉です。「あなた方は、この後すぐに起こる十字架の出来事によって、散らされてしまう。本当に大きな苦難の中で信仰が揺らいでしまうだろう。しかし勇気を出しなさい。あなた方の信仰が揺らいでも、私は揺らぐことがない。私が支える。私が守る。私は既に世に勝っているから!」こういうお言葉です。しかし、ただそれだけではありません。この苦難という言葉の中には、もっと広い意味合いが込められていると思います。イエス様は、地上のご生涯の中で、この世の様々な苦難と戦われました。そしてイエス様は、あの十字架においてこそ、全人類の苦しみの根源、即ち罪と悲惨、また死の苦しみ、地獄の苦しみを、私たちに代わって一手に引き受けて下さったのです。そして、それら全てに打ち勝たれたお方として、イエス様は甦って下さいました。私たち一人一人には、イエス様が戦い抜かれたような力はありません。またそれに打ち勝つ力もありません。けれども、イエス様は勝利して下さいました。イエス様の戦いは、私たちに代わっての戦いです。イエス様の勝利は、私たちに代わっての勝利なのです。つまり、イエス様の勝利は、信仰においてイエス様に繋がっている者たちの勝利でもあるのです。「この世にある限り、あなた方には様々な苦難があることだろう。時には信仰が崩れそうになることもあるのかもしれない。しかし、勇気を出しなさい。私はあなた方に代わって、それら全てに打ち勝った。恐れに打ち勝ち、サタンの誘惑に打ち勝ち、罪と死の力に打ち勝った。あなたが頑張るのではない。私が支える。私が守る。私が共にいる。どんなことがあろうと、私は決してあなたを見捨てない!だから安心するように!」こうイエス様は励まして下さるのです。私たちは、信仰の道に入った時に、この主の言葉に励まされ、勇気をいただいたのではないでしょうか。
プロゴルファーの中嶋常幸さんは、1983年には年に八回も優勝し、「彼が出場すれば必ず優勝する」とまで言われるほどに、押しも押されぬプロゴルファーとしての地位を築き上げました。中嶋さんは、子供の頃から厳しい父親の指導のもと、スパルタ教育でゴルフを教わったそうです。けれども、いつのまにか父親の期待、周囲の期待に応えようとして、自分を追い込むようになっていきました。そして、ついには強迫神経症を患い、手がしびれて、思うように手が動かなくなってしまったのです。それ以来、彼は全く優勝から遠ざかってしまいました。「こんな下手くそな自分は自分ではない!」と思い、自分自身に生きる価値を見出すことが出来なかった時は本当につらかった、と彼は語っておられます。しかし、そんな彼にも転機が訪れました。それはクリスチャンである奥様に連れられて、キリスト教会に通い始めたことが一つのきっかけであったと言います。彼は、その教会で「どんなに下手くそであっても、どんなにわがままであっても、そのままで私のもとに来なさい。私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している!」という神様の御声を聞いたのです。そして、その時に彼は、もう一度、生きる勇気をいただいたのでした。「勇気を出しなさい」と神様からポンと背中を押していただいたのです。それ以来、彼は、たとえギャラリー全員が「だらしないヤツ!」「情けないプロ!」と罵倒したとしても、「神様だけは決して私を見捨てない!たとえ結果が最悪であったとしても、それが神様の御心ならば、いさぎよくそれを受けとめよう!」と少しずつ思えるようになり、再びのびのびとプレーが出来るようになっていきました。そして、その後彼は、七年ぶりの優勝を手にすることができ、見事、復活を果たすことが出来たのです。
私たちも、皆、信仰に入った時には、こういう思いでいたのではないでしょうか。自分の力で頑張るのではない、世に打ち勝たれたイエス・キリストが私たちと共にいて、支えていて下さる、と。けれども、時が経つにつれて、だんだんとその思いがぼやけてしまい、世に打ち勝たれたイエス・キリストに焦点が合わなくなってしまうのです。勿論、自分で何でも出来る、と傲慢なことを考えているわけではありません。けれども、多くのことを自分の力で頑張り、「今日、私にイエス・キリストの助けがどうしても必要である」という思いがぼやけてしまうのです。私たちがしばしば出会う人生の嵐は、そういう私たちの信仰のゆがみに気づかせてくれるものではないでしょうか。もう自分の頑張りではどうにもならなくて、神様の前で謙遜になり、ひざまずいて、全てをお任せした時に、本当に不思議な平安が与えられた。これは、そういう極限状態に追い込まれた時に、初めて味わえる恵みではないかと思います。そういう意味では、クリスチャンにとって苦難は、何も悪いことばかりではありません。私たちの信仰のゆがみを補正し、練り清めるための試練なのです。
クリスチャン作家の椎名麟三さんが、洗礼を受けた時に、同じくクリスチャン作家の遠藤周作さんにこう言ったそうです。「遠藤さん、これで私は虚空(こくう)をつかみながら、ジタバタして死んでいけますわ。」「虚空をつかむ」というのは、「苦しみ藻掻く」というような意味です。イエス様を信じた時に、彼は「これで苦しみ藻掻き、ジタバタしながら死んでいける!」と言ったのです。本当に不思議なことを言われるなぁと、最初、私は思いました。普通は逆ですよね。何があっても、もうジタバタしない、心穏やかに、平安に死ぬことが出来る。信仰をもったならば、そういう心の平安をいただくことが出来る。これがクリスチャンの本来の姿ではないかと思います。けれども、椎名さんはそれとは全く正反対のことを言われました。つまり、これでやっと、虚空をつかみ、「恐いよ、恐いよ」と言って死ぬことができる。もう、恐がるところを隠す必要はない。あるがままの自分を全部さらけ出すことが出来る。もう安心である、と言ったのです。要するにこれは、自分の裏も表も、弱さも醜さも、全部見せてもかまわない。隠す必要がない。全部任せることができる。そういうお方を知った。だから安心なのだ、ということでしょう。そういう意味では、この椎名さんの姿は、むしろ、本当にクリスチャンらしい姿ではないか、と私は受け止めることが出来るようになりました。
イエス様が言われるように、クリスチャンであっても悩みが無くなるわけではありません。悩みや苦しみが全部消え失せ、心がいつも平安になるわけではないのです。しかし、世に打ち勝たれたイエス様を信じるがゆえに、私たちは苦難が襲ってきたとしても、もう自分の力で頑張り、やせ我慢をし、平安な素振りをする必要はありません。悩み苦しみ、ジタバタする自分を、すべて世に打ち勝たれたイエス様の前に投げ出せばいい。そこにこそ、決して揺らぐことのない平安があるのではないか。これこそが、世に打ち勝たれたイエス様が与えて下さる、真実の平安ではないかと思います。